新耳袋 現代百物語 第十夜

新耳袋 現代百物語 第十夜 新耳袋 現代百物語 第十夜』

木原浩勝&中山市朗

判型:B6判

版元:Media Factory

発行:2005年6月19日

isbn:4840112819

本体価格:1200円

商品ページ:[bk1amazon]

 6月15日、某所の情報で既に店頭に並んでいるところがあることを知り、慌てて最寄りの書店に駆け込む。一冊だけ新刊の棚に挿してあるのを発見、確保するとすぐさま帰宅、最近はある程度本が貯まってから一気にカバーをかけることが多くなっているが、すぐに読むために他の本もろともすぐさま作業を済ます。

 このシリーズは一晩で一冊読み終えると、何らかの怪異が訪れる危険がある、というもっぱらの評判である。実際、中盤の巻にはそうしたエピソードも収録されているし、採用を見送られる程度にありふれた怪異はあちこちで確認されているようだ。怖い話は大好きだが身近で起こられたときの反応が自分でも想像出来ないので可能なら避けたい、というそれなりにチキンな私は、起こりうることなら避けておきたい、と購入次第すぐさま読み始めても一晩で片付けてしまうことは今までなかった。だが、文庫化もまだ4冊残っている(2005年6月16日現在、近々第七夜が文庫化予定)し、著者ふたりもこれで怪異蒐集をお開きにするわけではないとはいえ、初期から目標として掲げていた第十夜が刊行されたのである。その優れた著述に敬意を表して、今回に限り危険を覚悟で、一晩で読み終える意を固める。

 諸々片づいた午後十一時頃より本格的に着手する。基本的な意匠・構成は一貫しているが、装幀は完璧なまでに真っ白、十話程度を区切りに行われていた章立てが今回に限り“百物語”と題して一冊まるまるで一章を構成しているという破格ぶり。ずっと読み継いできた人間ならば、このあたりからも著者の万感の思いを察することが出来るはず。

 冒頭三話は昨年の大河ドラマのテーマともなった新選組(本書では新“撰”組)絡み、という一風変わった内容である。基本的に地名や具体的な人名は伏せる、という基本方針も、さすがにこの趣旨では覆さざるを得なかったようだ。しかし、複数の人間が絡みあい怪異を保証してしまう状況、或いは怪異そのものを目撃していたわけではない人間が間接的に語ることによって生じている妙味と、新耳袋シリーズならではの特色が光っている。本シリーズと双璧を成す『「超」怖い話』シリーズではこういうテイストの話とはほとんどお目にかかることがない。

 敢えて章立てを事実上撤廃した、と推測したが、しかし読み進めていくと、テーマごとに分けるのが困難なくらいに個性的なエピソードが多い巻であることにも気づく。強いて言うなら冒頭の新撰組絡み三話、何箇所かに鏤められた人形の登場するエピソード、そして終盤が独立させられるだろうが、他の話はほとんど括りようがない。ストレートな幽霊話が大勢を占めているのは当然として、『賽銭箱』『超能力』『鯉』『吊橋』など、従来のかなり様々な“怪”を蒐集してきた新耳袋シリーズ全体を通してもカテゴライズの難しいエピソードも少なくない。何故か過去の世界を一瞬垣間見た、としか説明の出来ないパターンが密かに複数認められるが、そんななかにも幽霊話の延長と解釈出来るものと、まったく見事なまでに説明を拒絶するものとが混在していてなかなかに厄介だ。一区切りとなる最終夜まで来て、怪の多様性が更に増した趣がある。

 著者の両氏は本シリーズのMedia Factoryでの再開から間もなく、新宿のLOFT/PLUSONEにて不定期に怪談会を催している。取材したての怪談や、発表済のエピソードの後日談などを時にゲストを招き映像を採り入れて披露するもので、既に四十回を数えるそのうち、私は少なく見積もっても二十数回は参加している。ここ二年くらいはほぼ皆勤しているはずだ。それだけに、本書に収録されたエピソードのかなり多くを既に著者自らの語りによって聞いている。最初の頃はそれでも舞台にかけられなかった話がかなり多く入っていたはずなのだが、怪談の類は取材を重ねていくごとに幅を狭めてしまうもので、第八夜あたりからは刊行時点でだいたいの話の粗筋を知っている、という状況になりがちだった。

 だが、だからと言って読むときに興が削がれることもない。ライブで披露されるときはたいてい人に向けて披露するのが二度目とか三度目という段階で、根っこにお笑いの成分を多々含んでいる両氏の語りはしばしば笑いを誘わずにおかず、やもすると怪談という雰囲気から遠ざかる。長丁場の怪談会ではある程度の笑いを交えるのも必然なのだが、しかしそのままでは本に収録し得まい、と感じることも多い。それが、いざ本に収録されたもので読み返してみると、見事に恐怖のエッセンスのみが抽出され、笑いの要素を掻き消している場合がほとんどだ。その洗練の過程を垣間見ることが出来るのも、トークライブ参加者としての楽しみのひとつである。

 活字媒体に掲載されていないのをいいことに、怪談好きを誘い出す撒き餌代わりに飲みの席などで使わせてもらっていた話も、そのディテールを再確認出来る。骨子が明快で、かつラストのインパクトが秀逸な『安い家』などお気に入りで何度も口にしたのだが、さすがに取材者自らの筆になると、更に細部が明瞭になっていて、記憶と共に初めて聴いたときの恐怖が甦る想いがする。この話に限らず、最初に聴いたときにおぞましさを覚えたエピソードは、文章で読み返すと改めて最初の恐怖がぶり返してくる。『着せ替え人形』に『和人形』に端を発する数話、それから『集合写真』あたりの漂わせる瘴気はただごとではない。

 ……と、このへんで午前二時近くなり、ふと明日は朝がやや早めなのだった、と思い出す。そうでなくてもこのところ読書のペースが鈍りがちだったところへ、これで一区切りという感慨が手伝ってスピードはいつもより遅め、やっと六十話を超えたぐらい。必死に読み切ってダメージを引きずるのは拙かろう、とここで諦め、床に就く。

 眠れねえ。

 妙に目が冴えて眠れない。先がどうしても気に掛かる。午前四時くらいまで頑張ったがとうとう音を上げ、枕元の灯りを点けて続きを読む。ここまで来たら覚悟を決める。何が起きたって構うものか。

 トークライブ常連として感慨深い点がもうひとつある――『ミナミのスナック』二話が収録されたことだ。この話、恐らくライブにて初めて披露したその場に居合わせたのだが、記憶に間違いがなければ第五夜か第六夜が出る直前ぐらい、つまり四・五年前の話になる。話の中に謎が残っており、それについて再確認が出来ればふたたび俎上にする、と仰言っていたはずが早幾年、以後証言者となった芸人さんにお会いする機会が持てなかったために話題となることがなかったエピソードだ。結局のところ追加取材は出来なかったのか、本書の中でも大きな謎を残したまま収録されているが、しかしその謎の残り具合は却って新耳袋らしい。その後の経緯が判明したのならまた改めて伺いたいところだが、このままでも個人的には納得する。恐らく二度目とか三度目とかの参加で耳にして以来印象に残っていた話だけに、これが収録されていることにもまた感慨を誘われた。

 本シリーズは扶桑社で当初発刊されたとき、百物語の体裁を忠実に再現してしまったがゆえに読者のもとへ“本物”を引き寄せてしまったという報告が多く齎されたため、Media Factiryでの復刻以降は九十九話に統一されているが、その実、著者の独白や余話といったかたちでシークレット・トラックが挿入されており、実質的には百物語として成立している、と解釈することも可能だ。本巻でのそのシークレット・トラックに相当する挿話は、著者のひとり・木原浩勝氏が怪異蒐集を始めるきっかけとなったものについて、ひとつの決着をつけたある“出来事”である。それ自体は怪異とは呼びがたいが、しかし当初の目標であった第十夜達成を前に訪れた“好機”はそのまま怪異蒐集という数奇な運命の終息を思わせて、クライマックスを飾るエピソードのひとつとして相応しい。エピソードのひとつとして素直に計上しなかったのも、新耳袋全体を通して姿勢を貫いた著者らしい配慮だ。

 そして遂にトリの十話。著者はトークライブの席などで常々、最後のエピソードは決まっている、と話していたが、その意図もよく伝わる優秀な連作である。まず著者ふたりが自ら体験したエピソードである、ということも重要だろうが、もっと大切なのは、『新耳袋』などかたちもなかった時期に、シリーズの特徴をほとんど踏まえたような“怪異”が立て続けに発生しているのが凄まじい。しかも、一見無軌道にエピソードが羅列されているようでいながら、きっちり決着しているのである。新耳袋らしさを存分に発揮しながら、持ち味を破壊しない程度に説明もついている――幽霊マンションや夜警の報告書などの連作の発揮する不気味さ、充実感とは異なるが、著者自身の体験でありながら全篇を総括するようなエピソードであり、これを最後に残したかった、というのも実によく解る。そのうえ、この連作のラストはそのまま発表済の、新耳袋中の白眉とも言えるあのエピソードに繋がっていく――原点に戻り、ふたたび怪異の円環を始めるこの場所に着地を定めたことで、シリーズ全体としても美しく締めくくっている。まだその肝心のエピソードに触れていない方をシリーズの深みへと導き、読み継いできた方にはあの瞬間の寒気を甦らせる。

 復活以来安定したクオリティを保ってきた『新耳袋』であるが、最終巻である本書は大作こそなかったものの、粒の揃った点においてトップクラスの仕上がりを見せた。大願成就をお祝い申し上げると共に、著者ふたりの新たなるシリーズにも期待を寄せずにいられなくなる、有終の美を体現する一冊である。

 ……午前五時十五分、読了。奇しくもトークライブが通常終了するぐらいの時間である。折角なのでライブのラストで行う“厄落とし”の手順どおり、手拍子のあと、喉が渇いたときのために用意してあった水を飲み(ライブでは、家に着くまでのあいだに飲物か食べ物を口に入れ飲み下す、という手続を求めている)、すっきりした気分で布団を被る

 ――――――って、厄落としちゃ意味ないじゃん!! 何の為に覚悟決めたんだよ俺?!

 当然のごとく、それから現在まで何の怪異も起きておりません。嬉しいんだか悲しいんだか。

コメント

  1. pnu より:

    はじめまして、「新耳袋」の書評をもとめてたどりつきました。
    トークライブすごそうですね…怖がりなので私はとても参加出来そうにありませんが…。

  2. tuckf より:

    はじめまして、コメントとトラックバックありがとうございます。
    トークライブはある程度約束を弁えておく必要がありますが、取材したての怪談が剥き身に近い状態で披露されますので、一見の価値はあります。思っている以上に笑う場所も多いので、怖いばかりではありません――尤も、いちばんきついのは徹夜のイベントだ、ということかも知れませんが。翌朝はほとんど使い物にならなくなってます、私。

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