横浜・山手の出来事

横浜・山手の出来事 『横浜・山手の出来事 日本推理作家協会賞受賞作全集66』

徳岡孝夫

判型:文庫判

レーベル:双葉文庫

版元:双葉社

発行:2005年6月20日

isbn:4575658650

本体価格:905円

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 明治二十九(1896)年十月二十二日、当時の横浜居留地の社交場“ユナイテッド・クラブ”の支配人ウォルター・レイモンド・ハロウェル・カリューが亡くなった。病による急死と思われていたが、妻イーデス・ハロウェル・カリューやカリュー家の家庭教師メアリ・ジェイコブらの発言から砒素中毒の可能性が浮上する。居留地にて開かれた検屍裁判が進むにつれ、異常なまでに購入されたファウラー溶液や、その購入に関する指示を誰が下したか、についての混乱、死亡前後の病状確認の不適切さが浮き彫りになり、やがてカリュー夫人が毒殺犯として告発される。だが、殺意や機会を具体的に立証する手だてはなく、夫人の弁護人は幾つかの疑惑を材料として、夫人の裁判と並行して家庭教師ジェイコブを起訴するという奇手に打って出る。ウォルターは本当に何者かに毒殺されたのか、ならばいったい誰が犯行を計画したのか……? 偶然発見した裁判記録からこの事件に着目した著者はイギリスに飛び、現地の協力者とともにカリュー夫人らの実像に迫り、真相を解き明かすことを試みる――第44回日本推理作家協会賞の評論その他の部門賞を獲得した、ノンフィクション。

 とある方の推薦で読み始めたのだが、なるほどこの迫力は凄い。現実にこれほど不可解で謎めいた事件が、経済的にはともかくコミュニティとしては極めて小さな外国人居留地で起きていた、という事実にまず驚く。

 ただ、序盤はどうにもペースが掴めず読みにくい思いをし、結果として読み終えるのに、間に何冊か挟みながら一ヶ月近く費やしてしまったことを告白しておく。第I部が検屍裁判、第II部が正式な法廷となるのだが、このくだりは様々な情報が錯綜して描かれている上に、証言が常に揺れ動いているので状況の把握が難しく、終始テンポに乗れなかった。

 文中でもそう綴っている場面があるが、恐らく実際の裁判記録は更に複雑怪奇な代物で、ここまで噛みくだくだけでも大変な労力を費やしたと思われる。たとえば、関係者が砒素溶液を購入したという店の日本人店員の証言や質問など、質問の意図も解答の内容も正確に伝わっているか不明のままに英語の文章として残されていたはずで、著者が“解読”するのにどれほど努力したのかを想像すると頭の下がる思いがする。多少読むのには苦労するのだが、そんなふうに想像を巡らせていくと途中で止めようという気がまったく起きない。

 いちおう裁判は終結し、評決は出されるのだが、日本にはその後の記録が残されていないばかりか、現代の裁判であれば(恐らくは当時であってもイギリス本国であれば)当然あるべき記録がなく、また異例の手続によって進められた法廷の結論には多くの疑問が残る。それを追求するため、著者はカリュー夫人らの出身地であるイギリスに飛び現地に得た協力者と共に、関係者たちの出身地やその実像、また遠い東洋の島国で発生した事件がどのように捉えられていたかなどを調査していく。迂遠な裁判記録から離れ、自らの見出した“疑問”に照準を絞って調査の手を伸ばしていくこの第III部に入ると俄然叙述はテンポアップし、リーダビリティも向上する。長い裁判記録の引用と要約は、ここに至るまでの伏線であったと思えるくらいに面白い。現地に渡ることを決意したところから、幾つもの偶然がいい方へと左右して著者を核心へと導いていっているのがまたドラマティックだ。

 判明したカリュー夫人やウォルター、ジェイコブらの実像を根拠に、著者は最終的に自分なりの結論を出す。なにせ執筆された当時でも既に九十年は昔の事件であり、新たな物証が出てくるはずもないので、その推理はカリュー夫妻の結婚式の模様やそれぞれの家柄、写真から窺われる彼らの性格、更に当時の世相などと併せた状況証拠の積み重ねで推理するしかなく、独断や偏見がたぶんに混ざっている(著者自身もそのことを否定していない)が、少なくともここまで著者と共に旅を続けてきた読者が、この結論に異論を覚えることはないはずだ。裁判記録を繰り返し繰り返し吟味し、わざわざその出身地を訪問して実像を探り出してきた著者の直観的な結論には、間違いなくそれだけの説得力が備わっている。

 ウォルター・カリューの不可解な死は、イギリス特有の価値観を背景に、東洋の島国におかれた外国人居留地という特異なコミュニティだからこそ発生した事件であった。そのことを読者に知らしめるこの作品は、実話をもとにした優れたミステリーであり、ドキュメンタリーであると共に、往時の居留地ヴィクトリア朝イギリスの空気とを見事に描き出した歴史小説でもあると思う。よほど巧くテンポが合わせられないと序盤は読むのがきついと思われるが、それだけの価値はある。

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