蝉しぐれ

蝉しぐれ 蝉しぐれ

藤沢周平

判型:文庫判

レーベル:文春文庫

版元:文藝春秋

発行:1991年7月10日(2004年12月10日付43版)

isbn:416719225X

本体価格:629円

商品ページ:[bk1amazon]

 海坂藩普請組に勤める牧助左衛門の養子・文四郎は文武双方に才覚を示す若者であった。決して地位は高くないが人格に優れた養父の薫陶により逞しく育っていった文四郎であったが、ある日、悲劇が訪れる。藩に対して謀反を企てたとして多くの藩士足軽が処分されるなか、助左衛門は切腹の沙汰を受け、牧家の家禄は四分の一に減ぜられた。最期の父の言葉を受け、助左衛門を恥じることなく必死に家名を支える文四郎であったが、数えにして十六の彼はまだ知らなかったのだ、その背景に藩を二分する派閥争いが絡んでいたことを。それはやがて、普請組の組屋敷に住まっていた時分の隣同士であり、ほのかに想いを寄せ合っていたおふくが藩主の側妾となり、子を宿したことにより、思わぬかたちで文四郎を謀略のただ中へと巻き込むことになる……

 死後八年を経た今もなお人気に翳りの見えない時代小説の名手・藤沢周平の最高傑作とも言われる作品である。私は晩年に刊行された全集をひとから借りるかたちで初めて本編に触れ、このたびの映画化に合わせて十数年振りに再読したのだが、改めて傑作という評価に頷かされた。

 筆致は終始穏やかである。文四郎と小和田逸平ら友人たちとの気取りのない交流や、隣家の次第に娘びていくおふくとの何気なくもほのかに甘い触れ合いを描いた序盤三章ほどは、これといった大事の気配もなく、武家といいながらも末席にいる人々の暮らしぶりを暖かな血の通った文章で活写する。

 そこへ、まず人斬りの事件が発生すると、主人公・牧文四郎の運命は一挙に変転していく。間もなく義父の助左衛門が反逆のかどで切腹を命じられ、罰として禄を削られ義母共々逼迫した生活を余儀なくされる。そんなさなかにも、古い友人の与之助が遊学のため江戸に発ち、それ以前から母子のふたり所帯であった逸平は三人の中でいち早く城仕えを始めて揃って通っていた道場を遠のき、幼馴染みのおふくが藩主家の奥に仕え間もなくお手つきとなり、ついにはその子を身籠もったという噂が届く。犯罪者の係累という汚名を堪え忍び、侍としての本分を逸脱せぬよう心懸け家名を守り抜こうとしながらも、そうした若者らしい悩みにしばしば遭遇しては心揺れ動き、しかし武士らしく対処しようと一歩一歩成長していく姿が、決して押しつけがましくなく、自然に描かれている。

 今では遠い江戸時代の風土や倫理観を、さほど違和感なく読者に理解させる文章と、その縛りのなかでしかし矜持を貫こうとする姿の美しさを描いた本書は、確かに藤沢周平という作家の本領を最も顕著に反映し完成させた作品であるが、同時に純然たる青春小説であることもまた本作の魅力を高めている。友との別れ、手の届かないところに行って初めて自覚した恋心、その想いを互いに秘めつつ迎えた再会の瞬間の、激しくも細やかな描写の巧みさといったら。

 ラストシーンは唐突に大きく時間を飛ばすが、それさえきちんと物語の調和の中にある。ああいう形だからこそ、時間をかけて自覚し膨らんでいった想いはようやく正しく結末を迎える――何処か疚しい未練を残すような締め括りだが、そのほのかな苦みもまた、この時代の青春を描いた物語に相応しい。

 もう今更私如きが言うまでもなく、傑作中の傑作である。映画の予習として読んだはいいが、却って不安になるほど、この物語はあまりに美しすぎる。

 と、臆面もなく月並みな言葉ばかり連ねてしまったが、最後にちょっとだけ個人的な感慨を書き留めておく。

 ちかごろは読書のペースをコントロールしている余裕もなく、その時その時の事情や気分で適当に読む本を選び、あるときは一冊に集中して、あるときは並行して数冊を同時に読み進める、といった具合に片付けている。

 つまり、『サイレント・ジョー』の直後に本書を読み終えたのには何ら手心を加えたわけでもない。だがこの二作、基本設定がとてもよく似ている。主人公は養子であり、敬愛しその影響を強く受けた養父が何かの陰謀に巻き込まれて頓死する。結果として主人公もまた、義父を巻き込んでいった陰謀に取りこまれていくことになる――と、ごく大まかなアウトラインが非常に似ているのだ。

 尤も、『サイレント・ジョー』の主人公は来歴とその特殊な容貌ゆえのハンデがあり、本編の主人公は自発的に陰謀に関わったり事件の謎解きをしていく訳ではなく、古い縁から不可避的に巻き込まれているのであり、また時代も場所も大幅に違うがゆえに事態をめぐる推移も展開もぜんぜん違う。しかし、いったんそういう共通点を認識すると、本編の文四郎に窺われる何処かハードボイルドに通じる言動まで目について、色々と興味深いものがあった。

 翻って、本編のプロットは切り口を変えればハードボイルド小説のごとく謎解きを中心に描くことも出来たように思われ、そうした解釈での『蝉しぐれ』も読んでみたかった気はする――ちょっとだけ、ちょっとだけ、ね。

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