誰か Somebody

誰か Somebody 『誰か Somebody』

宮部みゆき

判型:新書判

レーベル:KAPPA NOVELS SELECT

版元:光文社

発行:2005年8月25日

isbn:4334076173

本体価格:857円

商品ページ:[bk1amazon]

 2003年に実業之日本社よりハードカバー書き下ろしの体裁で発表された長篇。2005年12月現在、中日新聞などに連載されている長篇『名もなき毒』に先んじるエピソードでもある。

 梶田信夫という人物が自転車に撥ねられ、弾みで頭を打ったことで還らぬ人となった。遺された娘の梨子は、なかなか犯人が現れないことに業を煮やし、梶田が亡くなる直前まで運転手を務めていた今多コンツェルン会長・今多嘉親の協力を得て、父の人生を本のかたちで出版し、それで犯人に訴えかけようと計画する。彼女の手伝いを任されたのが、今多コンツェルンのグループ広報室に編集者として勤め、嘉親の娘・菜穂子の夫でもある私、杉村三郎だった。しかし、熱心に仕事を進める梨子に対し、姉の聡美はあまり乗り気ではない。裕福ではないにせよ穏やかな暮らしを送っていたかに見える梶田信夫は、だがタクシーの運転手となる以前は寧ろ荒れた時期のほうが長かったという。その最大の象徴は、聡美の記憶に残る、誘拐事件であった……

 事件の規模が大きくなり、また話のヴォリュームも長大化する傾向の強まっていた著者としては久し振りに手頃な分量の、なおかつ極めて些細な事件を追う物語である。何せ主体となる“事件”は自転車による轢き逃げ、昨今社会問題として注目されつつあるとはいえ、ミステリーという括りで描く事件としては些細なものだ。しかも犯人は目撃されており、赤いシャツを着た子供であった、というところまで絞り込まれている。

 本編の面白さは、そこから撥ねられた人物の過去にメスを入れていくくだりにあり、またそれを追う探偵役の設定にこそ存在する。語り手ともなる探偵役の杉村三郎氏は、立場こそ大企業会長の婿殿だが、実際には後継者争いにも派閥争いにも無縁のポストにいる。また自分が根っからの小者であることを自覚しているのに、周囲がそう見てくれないことをも十分に承知している。その自己認識と周囲の理解とのギャップに悩み、また時として正鵠を突かれているという想いに苛まれる姿は、ミステリの一人称人物としてはなかなか特殊で、読み応えがある。

 実のところ、謎解きとしては決して纏まりがあるほうではない。梶田氏が抱えている“秘密”の正体にしても、杉村氏がひょんなことから察知してしまう別の真実にしても、成り行きから想像するのは容易く、しがらみに縛られているからとは言え遠回りばかりしている杉村氏歯痒ささえ感じる場面もある。

 だが、そこに至る心理的伏線の巧みさと、鏤められた描写の活かし方は職人技である。杉村氏の日常、結婚と父の死とのあいだで揺れる聡美の心境、姉と対立してでも父の回想録の出版に尽力する梨子、また調査の過程で杉村氏がすれ違う人々の言動――そうした場面のあちこちにふと顔を覗かせた描写が、終盤で明かされるいささか醜悪で残酷とも言える人間ドラマをより味わい深いものにしている。その謎は決して特異なものではなく、あたりを見廻せば簡単に目につくかも知れない。だが、当人たちにとっては決して笑い事ではないことも、しかし周囲の人間にとっては些事に過ぎないことも、この物語は平等に捉えている。

『理由』『模倣犯』など著者を代表する大作と並べると、謎解きとしてもドラマとしても小粒の印象があるのは確かだが、だからこそ密度の高い読後感を齎す作品である。近年長大化の一途を辿っている印象のある著者だが、こういう小振りでもスパイスの利いた作品も折に触れ上梓してくれると大変嬉しいのだが――。

 前述の通り、現在著者は新聞にて本編の続編にあたる『名もなき毒』を連載中である。開始から八ヶ月近くなって、物語は佳境に入った印象がある。長い連載ながら筋の細部が記憶に留まるストーリーテリングの技はさすがだが、しかし主体として綴られるふたつの事件の結びつきが弱い、という感想を持っていた。

 だが、それも本編を読んで合点がいったように思う。謎解きよりも、事件を通じて明るみに出る、登場人物たちの哀しみや苦しみが、このシリーズの真の眼目なのだろう。問題は、解き明かされた謎と、如何に対峙するかなのである。本編で杉村三郎氏と彼を取り囲む世界に魅せられ、『名もなき毒』の単行本化を心待ちにしているという方には、恐らく期待を裏切らぬ出来になりますよ、と予言しておこう――保証はしないけど。

誰か Somebody(実業之日本社・刊)四六判ハード [bk1amazon]

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