狼の帝国

狼の帝国 『狼の帝国』

ジャン=クリストフ・グランジェ/高岡真[訳]

Jean-Christophe Grange“L’Empire des Loups”/translated by Shin Takaoka

判型:文庫判

レーベル:創元推理文庫

版元:東京創元社

発行:2005年12月16日

isbn:448821407X

本体価格:1000円

商品ページ:[bk1amazon]

 警察官僚ローラン・エイムズの妻アンナはひと月も前から奇妙な記憶障害に悩まされている。身近な人間の顔が識別できなくなり、いつしかぐちゃぐちゃに潰れたものに見える幻覚症状を呈していた。脳から細胞を取り生検を行う、というローランの知人である医師の提案に反発した彼女は、電話帳で発見した精神科医マチルド・ウィルクローに頼る。

 同じころ、トルコ人街の女性労働者と思しき人物が三人、立て続けに拷問を受けた無惨な死体となって発見される事件が発生していた。若き警部ポール・ネルトーは、トルコ人街の裏事情に通じているが、他方では黒い噂の絶えない元警部ジャン=ルイ・シフェールに助力を求め、殺人鬼の影を追い求める。アンナの見舞われた災厄と、ポールたちの追う悽愴な事件は、やがてひとつに結びついていき、壮絶な真実を導き出していく……

 日本では映画版『エンパイア・オブ・ザ・ウルフ』と同時に訳出された、ジャン=クリストフ・グランジェの第四長篇である。既に公開され日本で著作が紹介されるきっかけとなった第二長篇『クリムゾン・リバー』のほか、デビュー作『コウノトリの道』、未訳の第三長篇『石の公会議』も映画化の企画が進んでおり、この点からもフランス・ミステリ界における著者の注目度の高さが察せられる。

 どちらかというと洒脱さや沈鬱さを売りにしている、という認識があるフランス・ミステリと並べると、この作品は目を疑うほどにスピード感と重厚感に富み、娯楽性が高い。登場人物それぞれの丁寧な造型に、長年の記者生活で培った社会情勢や化学に対する豊富な知識に裏打ちされた記述やアイディアに、流れがスムーズだが起伏の多いストーリーテリングが、読む方を強く引っ張っていく。550ページを超える本文は決して簡単に読み切れないが、飽きさせられることはない。

 しかしその反面、練り込まれた設定が全般に無駄遣いされている、という印象も色濃い。特にある主要登場人物の背景など、劇的な展開に感動を誘う色づけを果たすことも出来ずじまいで、虚しさばかりが強調されている趣だ。

 実のところ、本編にはその虚しさ、空虚さを主に描き出そうとした節がたぶんにある。事件の捜査とアンナの記憶障害の謎解きに焦点が絞られていた序盤はすべてそこに至る壮大な伏線であり、前述のような感想は著者の狙い通りとも取れる。が、しかしなまじ謎の壮大さが強烈であるため、その謎に直接絡まない背景を持つキャラクターがすべて蔑ろにされているような感想を抱かせるのは少々マイナスだろう。個人的には、物語の顛末を見届ける役割を部外者に割り振り、悲壮な末路を迎えるのは、いちばん大きな背景に直接関わる人物たちだけでも良かったように思う。そのほうが、カタルシスは激しく、余韻も嫋々たるものになったはずだ。

 一歩間違うとトンデモ本とも捉えられかねないアイディアに、詳細な科学知識を投入することで現実的な肉付けをし、真偽はさておき、その仕掛けによって翻弄される人々を味わい深く描き出す手腕は素晴らしい。ただ、せっかく提示したものの処理がいまひとつ雑であるために、全般に大味な印象を残してしまうのが勿体ない。人物それぞれの物語の絡ませ方にもう少し心を砕けば、娯楽としては充分に完成された作品に哲学的な彩りを添え、より質を高めることが出来たのではないか、と思う。

 とはいえ、いったん嵌ってしまったらなかなかページを繰る手の止められない、優れた娯楽小説であることは保証する。惜しむらくは、映画化に合わせるためによほど無理をしたのか、訳文に推敲の甘さが多数見受けられ、割付のミスや誤植も多数見出されることだが、この辺は版を重ねることで解消されるだろう――翻って、かなり大胆なところにいっそ微笑ましいミスがあったりする初版を確保して読んでおくのもまた一興である、と意地の悪いことを書いてみたり。

 当初、映画を鑑賞する前に予習として読むつもりで、購入早々に手をつけた本書だったが、諸般事情から映画のほうを早めに観てしまい、そのせいでモチベーションが失われて、別の本をあいだに挟んだりした結果、記録上は手をつけてから読了までに一ヶ月も費やしてしまった。が、後半200ページは実質一日足らずで読んでいるので、そのリーダビリティは確かなものだと思う。

 原作を読み終えて感心したのは、映画版序盤の忠実さと、後半の改変の大胆さである。序盤は作中のヴィジュアルが完璧に再現され、中盤以降からやや展開の省略・改変が始まり、クライマックスから結末に至るまではまったく別物と言っていい。映画ならではの映像的な見せ場を作る、という意図もたぶんにあっただろうが、今にして思うと、映画版での脚本を自ら手懸けた著者が、原作とは別の決着を提示したかったのかも知れない。

 人によって評価は分かれるが、いずれにも全体の大味さという欠点が共通しており、同じ大味ならばカタルシスのより明瞭な映画版にやや軍配を上げたい。しかし、映画が楽しめたという人ならば小説版も楽しめるはずであり、どちらが優れているかご自身の目で確かめるのがいちばんだろう。映画を堪能した方にこそ、まず本書はお薦めしたい。

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