灰の迷宮 吉敷刑事の殺人事件簿

灰の迷宮 吉敷刑事の殺人事件簿 『灰の迷宮 吉敷刑事の殺人事件簿』

島田荘司

判型:新書判

レーベル:カッパ・ノベルス

版元:光文社

発行:1987年12月25日(1989年5月25日付4刷)

isbn:4334027385

本体価格:690円

商品ページ:[bk1amazon]

 昭和62年2月10日、新宿駅西口でバスが放火される事件が発生した。七年前に同じ場所で同様の犯行があったことから、事件を担当することになった警視庁の吉敷竹史は両者の関連を疑う。だが、今回の事件には奇異な点があった。犯人が、何故かいちばん最初に逃げ出した乗客の鞄に集中的にガソリンを撒いていること、その中身は佐々木徳郎の息子・浩一が当日受ける予定の大学受験に必要な筆記用具類だったが、バスの目的地は試験場とまるで正反対の方向であり、佐々木の目的地が不明であることだった。当の佐々木は事件発生時、通りかかったタクシーに轢かれて死亡している。更に奇妙なこととして、佐々木の遺品から発見されたのは、二年前に吉敷が担当し、被害者の身元不明のまま迷宮入りしかかっていた殺人事件との関係を疑わせる新聞の切り抜きだった。バス放火と佐々木の謎めいた行動、そして二年前の殺人事件――この三者の繋がりを探るために、やがて吉敷は佐々木の暮らしていた鹿児島へと赴く……

寝台特急はやぶさ」1/60の壁』で登場した吉敷竹史刑事を主人公とするシリーズの通算6作目となる長篇である。怪奇小説的な外連味をふんだんに盛り込んだ御手洗潔シリーズに対し、こちらは社会情勢や警察内部の軋轢を盛り込み若干リアルな世界観を構築している――と言っても、この前作にあたる『Yの構図』まではやはり現実離れした大トリックを駆使し、当時著者らの働きかけで次第に隆盛となりつつあった“新本格”を牽引するに相応しい力強さを見せつけていた。

 が、そうしたねじ伏せるような力業は、こと吉敷竹史シリーズについては本作以降、『奇想、天を動かす』を除いてなりを潜めている(ただし私は現時点での長篇最新作『涙流れるままに』は未読であることはお断りしておく)。『奇想、天を動かす』はちょうど著者が提唱する“新本格ミステリー”の著者自身が理想とする形を提示する、という意図が窺われるため別格で取り扱うべきもので、本編あたりを境に吉敷竹史という探偵役とその扱いに意識的な変化があったと考えるのが妥当だろう。

 警察機構にいる人間を主人公にしながらもトリッキーであったこれ以前の作品と比較して、本編の展開はかなり地味な印象を齎す。バス放火という派手な幕開けに、犯人の目的も唯一の犠牲者の行動の意味も不透明であり、なかなか見えてこない事件の全体像は非常に謎めいて興味をそそるが、しかし「顔の皮を剥がれた屍体」「八つに解体され、七つの電車で戻る」といった猟奇的で大胆極まりないアイディアと比べるとやはり引きが弱い。

 しかし、パズルのピースを一片ずつ探り出し、じわじわと繋ぎあわせていく過程は実に読み応えがあり、リーダビリティは極めて高い。捜査協力させようとした目撃者の意外な行動、なかなか捕まらなかった事件関係者との思いがけない場所・状況での邂逅、そして彼女の吉敷を戸惑わせる言動の数々など、ドラマ的な見せ場が随所に盛り込まれているのも読みどころとなっている。

 そうして描かれる事件のクライマックスは、伏線を巧みに撚りあわせて劇的であるとともに、どうしようもない悲哀に満ちていて情感に富んでいる。意図的に犯罪を行おうとした人々も、止むに止まれず罪を犯してしまった人も、また巻き込まれる格好で嘘を吐き、或いは庇おうとした人も、みな一様にその佇まいは哀しい。とりわけある人物は、恐らく吉敷竹史にとって、未だに微妙な間柄にある元妻・加納通子に続いて記憶に留まる存在になったに違いない。

 桜島から降り注ぐ灰によって埋め尽くされた鹿児島の姿が、そうした悲劇の背景として重く横たわる。派手さには欠いても、ドラマとしては一級品であり、島田荘司という書き手の懐の深さを証明する一作であろう。

 実は本編こそ、私が初めて読んだ島田荘司作品であり、さきごろ鹿賀丈史主演によるドラマ版が放送されたことを受けて、薄れていた記憶を蘇らせる意味も含めて、十数年振りに再読したものである。

 私にとって思い入れのある一作だったが、しかしいかんせん初体験であるが故に記憶を美化している可能性も拭いきれないと思っていた。だが、経験値を積んでから読むと、やはり最初の印象は誤りではなかった、と感じる。決して派手なモチーフを用いずとも重厚で面白いミステリは描きうるし、幾許か手品的なモチーフを導入してもドラマは成立する。最初にこの作品に巡り逢ったことは、やはり自分にとっていい経験だった、と思う。

 なお、先日放映されたドラマ版であるが、時代背景の変更以外にも多々改竄や構成の変更が行われていたが、エッセンスは充分に温存されており、脚色としては極めて優秀だと思う。印象的な仕掛けを潔く排除したり、端折った部分も多いが、寧ろ情報が多すぎて混乱しがちな原作を、映像向けに仕立てるという意味では素晴らしい出来だった。鹿賀丈史主演による吉敷竹史作品のドラマ化はこれで二作目だが、この調子ならば三作目、四作目にも期待が持てるし、原作ファンにも安心してお薦めできる。

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