川を覆う闇

川を覆う闇 『川を覆う闇』

桐生祐狩

判型:文庫判

レーベル:角川ホラー文庫

版元:角川書店

発行:平成18年5月10日

isbn:4043703031

本体価格:552円

商品ページ:[bk1amazon]

 調査・警備を業務とする会社に勤める土岐順は、不動産会社の依頼で、借りた部屋をゴミの混沌と化して消えてしまった女・森志穂子を捜す任を帯びる。だがその日から、土岐の身辺で人智を絶した出来事が頻発する。川辺には常軌を逸して汚れた身なりの者たちが蝟集し、街中の若者たちは突如として不潔な行動に出る……やがて崩壊は、土岐が婚約者・杉山春奈と共に転居した街を急速に侵蝕していく。この急速な“変化”の背景には、近代になって顕在化したふたつの神の相克があった……

 このところ真っ当なホラー小説(珍妙な表現だが)から遠ざかっていた私だが、それでもこれだけは確信して言える――本編は恐ろしく独創的である。

 嫌悪感を催すほどの不潔感や、過剰な潔癖性をモチーフにしたホラーというのは存在するが、両者の相克をさながら神話に登場する戦いのように描いている作品は類がない。序盤は一時期頻繁にニュースショーなどで取り沙汰された“片づけの出来ない女性”の姿を描き、また主人公・土岐と婚約者・春奈や土岐の同人たちの活動を細かに鏤めて日常を構築していくが、それらを瞬く間に破壊していく。あまりに急速で読んでいる方はしばし呆気に取られるが、並行して施される“清潔”という概念の歴史とその空虚さに、自らの価値観を揺さぶられるはずだ。

 実のところ、価値観を覆されることほど恐ろしいものはない。しかも本編の凄まじいところは、その覆された価値観によって変質した社会に人々が順応したあと、それを更に足許からひっくり返してしまうあたりである。視点が一定せず、感情移入できる人物が少ないにも拘わらず読む手が止まらないのは、その未曾有の世界観と、ひとたび崩された価値観がいったいどこに着地するのか知りたい、という本能に訴えかけるが故だ。

 極度に物語が激しく揺れた末の決着には、やや不満を覚える向きもあるのではないかと思う。この締め括りでは、結局のところ何が勝利し何が敗北したか解らないのだ。だが、その曖昧な結末こそ、“清潔”という現代的な概念に根付いた“神話”には相応しいとも言える。安易な中庸を求めず、しかし人間に対して容赦のないこのラストこそ、“神”の選択として似つかわしいものではなかろうか。

 お食事をしながら読むのは尋常な神経では無理だろうが、おトイレで読むにはこれほど相応しい小説はない――こういう表現が褒め言葉として成立してしまうのも。如何せんグロテスク、下品も度を過ごしているので、読み手を大変選ぶ作品であるが、血や膿汁、糞尿が飛び交い渾然一体となる、という表現にまったく物怖じせず、いっそ(あくまでフィクションとして)魅力を感じるような向きであれば、快哉を叫びたくなるような傑作と感じられるだろう。

 恐る恐る手を出して吐き気を催しても当方は責任持ちません。

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