『イースタン・プロミス』

『イースタン・プロミス』

原題:“Eastern Promises” / 監督:デヴィッド・クローネンバーグ / 脚本:スティーヴ・ナイト / 製作:ポール・ウェブスター、ロバート・ラントス / 製作総指揮:スティーヴン・ギャレット、デヴィッド・M・トンプソン、ジェフ・アッバリー、ジュリア・ブラックマン / 撮影監督:ピーター・サシツキー / プロダクション・デザイナー:キャロル・スピア / 編集:ロナルド・サンダース / 衣装:デニース・クローネンバーグ / 音楽:ハワード・ショア / 出演:ヴィゴ・モーテンセンナオミ・ワッツヴァンサン・カッセル、アーミン・ミュラー=スタール、イエジー・スコリモフスキー、シニード・キューザック、ミナ・E・ミナ、サラ=ジャンヌ・ラブロッセ、ドナルド・サンプター、ジョセフ・アルティン、ラザ・ジャフリー、オレガル・フェドロ / 配給:日活

2007年イギリス、カナダ、アメリカ作品 / 上映時間:1時間40分 / 日本語字幕:石田泰子 / R-18

2008年6月14日日本公開

公式サイト : http://www.easternpromise.jp/ ※公開終了

ユナイテッド・シネマ豊洲にて初見(2009/03/02)



[粗筋]

 クリスマス直前のロンドン。助産婦アンナ(ナオミ・ワッツ)の働く病院に担ぎ込まれてきたのは、年端のゆかない妊婦であった。帝王切開でどうにか赤ん坊は無事だったが、衰弱の激しかった妊婦は絶命する。身許を探る手懸かりは携えていた日記だけだが、文章はロシア語で書かれていた。

 アンナの家はロシア系であり、頻繁に出入りしている伯父のステファン(イエジー・スコリモフスキー)はロシア語を解する。そこで翻訳を頼むが、死者から盗んだものに手をつける趣味はない、とはねつけられた。やむなくアンナは手帳に挟みこまれていたカードを頼りに、一軒のロシア料理店を訪ねる。

 アンナを迎えた店主のセミオン(アーミン・ミュラー=スタール)は妊婦に心当たりはないと告げ、代わりに自分が日記の内容を翻訳しよう、と提案した。戸惑うアンナだったが、物腰の柔らかなセミオンを前に、最後には頷き、翌る日、アンナは日記のコピーを彼に託す。

 ――アンナは知るよしもなかったが、セミオンはロンドンの闇社会に根を下ろしたロシアン・マフィアの総帥であった。目下の彼の悩みは、後継者である息子キリル(ヴァンサン・カッセル)が飲んだくれて、まったく頼りにならないことである。

 だが、対するキリルも、蔑んだ眼差しを向ける父親に反発し、父の目を盗んで悪事を働いていた。組織の運転手を務め、彼にとっては唯一心を許せる友人であるニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)を手足に、奔放に振る舞っている。

 日記のコピーをセミオンに手渡した帰り、アンナはそこで、奇妙に静謐を孕んだニコライと初めて出逢った……

[感想]

 ちょうど私が本篇を鑑賞する一週間ほど前に、ガイ・リッチー監督の最新作『ロックンローラ』が公開されているが、あちらを観た直後であるだけに、ちょっとした既視感を覚えた。

 但し共通しているのは、現代のロンドン裏社会を舞台に、あくどい仕事をするロシア人が登場している、という程度だ。しかしそれでも、見方、切り口を少し変えるだけで、こうも手触りの異なる作品が生まれるのかと興味深い。如何せん、本当にタッチが異なるため、本篇がお気に召した方にはあちらは合わないかも知れないが、もし機会があれば『ロックンローラ』のほうも鑑賞していただきたい。

 R-18というレーティングが示す通り、本篇はかなりえげつない描写が盛り込まれている。殺害方法はたいていナイフで喉を裂くかたちだし、主人公ニコライと娼婦の性行為をかなり生々しく捉えている。そして、高い評価を得た場面は、ニコライが全裸で格闘するくだりだ。ホラーや流血の多いサスペンスなどに接し慣れた人であればたじろぎもしない程度だが、それでも不慣れな方にはきついだろう。

 だが本篇の場合、すべてが必然的に組み込まれているのだから、ただ事ではない。流血シーンなどのどぎつさを抜きにすれば派手なシーンはなく、説明的描写を一切省いた淡々とした話運びはいっそ地味とさえ言えるのだが、その無駄のなさは驚異的だ。

 本篇は残虐な場面が醸成する緊張感とともに、観客には事情を隠した部分をいくつも残したまま物語を進めることで牽引力を保っているのだが、その解きほぐし方が巧い。いまいち不明瞭なニコライとキリル、組織のドン・セミオンらとの関係性や、日記に書かれている内容は何か、というのをじわじわと明らかにしていく一方、終盤唐突な形でカウンターパンチを繰り出してきたりする。謎解きが主眼ではないはずだが、終始つきまとう謎めいたムードには、ハードボイルドの香気が濃密に漂っている。

 本篇の軸はやはり、なかなか素性について語られない“運転手”にして“葬儀屋”のニコライなのだ。ストーリー展開に籠められた謎もさることながら、この男の立ち位置、思考回路自体がなかなか透けて見えず、まるで闇がそのまま具現化したかのように映る、その様こそが本篇の勘所と言えよう。

 反目し合う父と子のあいだに佇み、どちらへ偏るとも判断しがたい微妙な立ち振る舞いを繰り返し、彼らの指示に従って汚い仕事に手を染め、関与してきたアンナやその伯父に睨みを利かせる。かと思えば、雨のなか立ち往生したアンナを家に送り、その際故障したまま放置されていたバイクを、修理したうえで届ける。このときに口にする台詞には、ぶっきらぼうだが優しささえ滲んでいるのだ。善悪のあわいに揺れるかのようなその言動が、最後まで彼の正体を悟らせない――いや、言葉の端々、些細な表情、更には随所に挿入される死んだ妊婦の日記からの引用まで含めて考えると、終わったあとも彼の本心は謎を留めてしまう。

 謎解きが主眼ではない、と語った所以はここだ。謎がすべて解かれるわけではないが、そのことが表現の奥行きを深めている。終始善悪の彼我に立ち続け、意志を貫きとおしたように見えながら、どこか虚脱したような終盤の表情の味わいは、単なる謎解きでは演出しきれないものだ。

 ロシア人のルーツを持ちながら裏社会とは無縁で生きてきた女性・アンナの視点を導入しているのも、本篇をシンプルな謎解きや、『ゴッドファーザー』のような暗黒街を題材とした作品と一線を画したものにしている。彼女自身にも作中深く語られない過去があり、それが残された赤子への執着、ひいては危険をも承知で日記を巡ってロシアン・マフィアとの駆け引きに臨むという非凡な行動に及ぶが、そのスタンスは基本的に一般人、観客に近い。そんな彼女の目から見たロシアン・マフィアやニコライの横顔を添えることで、その暗澹とした世界をいっそう克明に描き出している。同時に、アンナに関する物語の締め括りが、慄然とするような物語にほんの微かながら救いの火を灯しているのである。

 ハードな描写も勿論だが、表面的な話運びに派手さがなく、積極的に表現を解釈する気持ちがないと楽しめないという点から、決して万人にお薦めできる類ではないものの、異様な熱気と不思議な香気に満たされた、稀有な作品である。

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