『ライムライト』

『ライムライト』

原題:“Limelight” / 監督、製作、脚本、音楽&主演:チャールズ・チャップリン / 撮影監督:カール・ストラス / 美術監督:ユージーン・ローリー / 編集:ジョー・インジ / 助監督:ロバート・アルドリッチ / 音楽:ラリー・ラッセル、レイモンド・ラッシュ / 出演:クレア・ブルーム、バスター・キートン、ナイジェル・ブルース、シドニーチャップリンマージョリー・ベネット、ジェラルディン・チャップリン / 配給:松竹洋画部 / 映像ソフト発売元:紀伊國屋書店

1952年アメリカ作品 / 上映時間:2時間17分 / 日本語字幕:清水俊二

1953年2月12日日本公開

2010年12月22日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]

第1回午前十時の映画祭(2010/02/06〜2011/01/21開催)上映作品

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2010/12/16)



[粗筋]

 盛りを過ぎた喜劇役者のカルヴェロ(チャールズ・チャップリン)が、酔っ払ってアパートに帰宅すると、玄関に近い一室からガスの匂いが漂っていた。ドアを蹴破り入ってみると、ひとりの女性が昏睡している。近所の薬局から医者を招き、すぐに対処して貰ったお陰で大事には至らなかったが、くだんの女性は長いこと家賃を滞納しており、部屋を空けている間に別の店子を入れられてしまい、カルヴェロは女性を自分の部屋に留めておかざるを得なくなった。

 当初カルヴェロはその女――テリー(クレア・ブルーム)を、夜の仕事をしているものと思いこんでいたが、もともとはバレリーナだった。リウマチを患ったことがきっかけで脚を麻痺させ踊れなくなり、絶望から自殺を図ったのだという。しかし医者は、肉体的に脚に異常はなく、精神的な問題で動かなくなっているのだろう、と診断した。カルヴェロは、自身が半年近く仕事のない絶望的な状況に直面していたが、そんな己をも鼓舞するように、テリーを励まし続けた。

 どうにかテリーが少しずつ歩けるようになった頃、ようやくカルヴェロのもとにエージェントからの連絡が入った。僅か1週間の短いステージだが、エージェントが尽力して獲得してきたのである。もはや自分の名前が却って足枷になっていることを悟ったカルヴェロは、自ら別の名義で出演することを決断したが、結果は散々だった。

 しかし皮肉にも、そんな彼を感情的に叱咤激励するうちに、テリーは自然に歩けるようになっていた。6ヶ月後、気づけば二人の立場は逆転し、再びステージに立って踊り子として活動しはじめたテリーは瞬く間に頭角を顕し、いまやプリマの座を射止めようとしている。対してカルヴェロは、テリーと出逢った頃と同じアル中に戻り、彼女に暮らしを支えられているような有様になっていた。

 自分の命を救ってくれたカルヴェロに愛情を抱くようになっていたテリーは、そんな彼が再びステージに立てるよう励まし、助力も惜しまなかったが、カルヴェロは若く、輝ける才能を持ったテリーの姿に、却って打ちのめされていく……

[感想]

 しつこいようだが古典に触れずに来た私にとって、これがチャップリン初体験である――これだけ世評が高い作品なのだから、断片的にでも観る機会はあったかも知れないが、少なくともきちんと向き合ったのは初めてだ。

 無声映画時代の作品でなく、キャリアの上では晩年に属する作品から観てしまったのは順番が間違っている気もする(午前十時の映画祭のプログラムなので、こちらには致し方ない)が、しかし本篇だけ観ても、チャップリンがここまでに辿ってきたエンターテイナーとしての歴史が透け見えるように感じられる。

 作中のカルヴェロと異なり、チャップリンが晩年苦しめられたのは人気の凋落よりも社会情勢の変化だったらしいが、しかし他方で、時間は誰からも公平に、若き日の光芒を奪っていくのは間違いない。当初、励まして生きる力を与えるつもりだった女性が、いざ立ち直ったあとに見せる目映いばかりの輝きに圧倒されるその様子には、チャップリンの胸中が垣間見えるように思える。実際に当人が衰えを意識していたのか、同年代の俳優や芸人たちの姿に感じるものがあったからか、いずれにしても、その心境を丹念に、実感的に描き出しているのは確かだ。

 正直に言えば、序盤の描写は全般にいささか間延びした印象を禁じ得ない。カルヴェロやテリーが語る過去は、今なら出来るだけ映像で再現しそうなところだが、おおむね台詞でのみ描いているせいで、変化に乏しく人によっては退屈に感じるだろう。台詞ひとつひとつに籠められた感慨は深く、味わい甲斐はあるのだが、そもそも語るべきエピソード自体が秀逸なので、もう少し映像に頼っても良かったように思える。夢という形で描かれる、芸人としてのステージの様子も、間延びした印象に拍車をかけているようだ。

 ただ、中盤以降の情緒の深さは素晴らしいものがある。序盤で描かれたカルヴェロの芸人としての姿とテリーの過去、そういったものが環境の変化の中で、実に繊細な人間模様、感情の機微を剔出していく。こと、テリーがプリマに抜擢されたバレエ楽団でカルヴェロが演じることになった道化を巡る顛末は、運命の悪戯によって動かされるカルヴェロの振る舞いに哀愁が強く滲み出ていて秀逸だ。

 そして、クライマックスにおけるカルヴェロ渾身の芸と、そのあとに繰り広げられるラストシーンは、決して大掛かりではないのに“圧巻”という表現を用いたくなるほどの感動を齎す。この場面だけでも充分に見応えのある舞台の完成度があるからこそ納得のいく終盤の描写は、やはり単品でも優れて情緒的なラストシーンをより鮮烈に印象づける。序盤、すこし冗長ではないか、と首を傾げつつ鑑賞していた私だったが、この終盤の素晴らしさに、評価を改めざるを得なかった。

 観終わったあとも、実のところ疑問は残る。あれは彼女の本心であったのか、本当に彼は満足したのか、そして幕が下りたあとには、カルヴェロが予言した通りの推移を辿るのかも知れない――だが、どれほど想像や解釈を繰り広げても、ラストシーンが湛える切なさも、優しさも、暖かさも、美しさも決して色褪せることはないだろう。きっと、何十年先の観客も、同じような感動を味わうはずだ。時代を超える傑作、という賞賛を、本篇に限っては確信を持って捧げられる。

関連作品:

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