『ヒア アフター』

『ヒア アフター』

原題:“Hereafter” / 監督&音楽:クリント・イーストウッド / 脚本:ピーター・モーガン / 製作:クリント・イーストウッドキャスリーン・ケネディロバート・ロレンツ / 製作総指揮:スティーヴン・スピルバーグフランク・マーシャル、ティム・ムーア、ピーター・モーガン / 撮影監督:トム・スターン,AFC,ASC / プロダクション・デザイナー:ジェームズ・J・ムラカミ / 編集:ジョエル・コックス,A.C.E.、ゲイリー・ローチ / 衣装:デボラ・ホッパー / 出演:マット・デイモンセシル・ドゥ・フランス、フランキー・マクラレン、ジョージ・マクラレン、ジェイ・モーアブライス・ダラス・ハワードマルト・ケラー、ティエリー・ヌーヴィック、デレク・ジャコビミレーヌ・ジャンパノイ、ステファーヌ・フレス、リンゼイ・マーシャル、スティーヴン・R・シリッパ、ジェニファー・ルイス、ローラン・バトー、トム・ベアード、ニーヴ・キューザック、ジョージ・コスティガン / マルパソ製作 / 配給:Warner Bros.

2010年アメリカ作品 / 上映時間:2時間9分 / 日本語字幕:アンゼたかし

2011年2月19日日本公開

公式サイト : http://hereafter.jp/

TOHOシネマズ西新井にて初見(2011/02/23)



[粗筋]

 ひとつめの物語は、パリ。一流のキャスターとして活躍するマリー・ルレ(セシル・ドゥ・フランス)は、恋人でもあるプロデューサーのディディエ(ティエリー・ヌーヴィック)とともにヴァカンスに赴いた東南アジアの島国で、大津波に遭遇する。辛うじて生還したが、マリーは波に巻かれ、救命措置を施されるそのときまで、奇妙な世界に身を浸していた。音もなく、時間が制止したような空間――パリに戻ったあとも、その手触りは彼女を捕らえて離さず、マリーはディディエから与えられた休養期間に、その経験について執筆することを思いつく。

 ふたつめの物語は、ロンドン。双子の兄弟、マーシャルとジェイソン(フランキー&ジョージ・マクラレン)は、母親ジャッキー(リンゼイ・マーシャル)が薬物中毒であるために、気苦労の多い生活を送っていた。薬に溺れているときは子供たちに無関心だが、普段はきちんと愛情を以て接してくれる母との暮らしを守るため、必死に努力している。その日、ふたりはジャッキーから薬局への使いを頼まれ、それが薬物中毒治療のための処方箋だと気づいて喜びを共有したが、直後、使いに出ていたジェイソンは、街の悪童に絡まれた挙句、車に撥ねられてしまった。この悲劇に、改めて母親は薬物中毒との戦いを決断、そのあいだ、ひとり残されたマーシャルは福祉局を介して里親に引き取られることになるが、半身を失った心の傷は、なかなか癒えることはなかった。

 そしてみっつめの物語は、サンフランシスコ。かつては霊能力者を生業にしていたジョージ・ロネガン(マット・デイモン)は、しかし今は工場で働いている。死者と対話することに虚しさを覚えたせいだが、未だ彼の能力に未練を抱く兄のビリー(ジェイ・モーア)は自分の取引先の男性を連れてきて、霊視をするように請うてきた。その男性が口を滑らせたために、ふたたび彼の力に縋る客が現れるが、ジョージはそれでも普通の人生を手にするために拒絶する。社会勉強のために通い始めた料理教室で、引っ越してきたばかりのメラニー(ブライス・ダラス・ハワード)と親しくなり、ようやく平穏な日々を手に入れられそうになったのだが……

[感想]

 近年、ほとんど携わるジャンルを特定することなく、毎回異なるアプローチで作品を発表しつづけるクリント・イーストウッド監督が、2010年の最新作で着手したのは、やはりこれまで手つかずだったスーパーナチュラルを題材としている、ということで、製作中から一部では噂になっていた作品である。

 しかし、ジャンルを特定しない一方で、一見オーソドックスに仕立てていても何処かしら工夫やひと癖あるのがイーストウッド監督の作風と言える、本篇もまた、スーパーナチュラルを採り上げた、と言い条、そこからイメージされるような恐怖を誘う語り口も、何らかの驚きを生み出す切り口も選択しておらず、よくよく分析すると非常に独特な作りをしている。

 粗筋で並べた通り、本篇はほぼ3人の視点による物語が並行して進んでいく。3人ともそれぞれ縁はなく、どのように絡んでいくのか、という点を牽引力とするべきところだが、本篇はむしろ、三者三様の“死”との関わりに焦点を絞り、別々の場所と時間の出来事を終始別々のまま結びつけるような形で語っていくのだ。いわば、作品自体が基本とする“死生観”をじっくりと浸透させていくような、そんな手管を窺わせる。

 個人的に感心するのは、ここで語られる“死生観”が、既存の宗教にあまり依存していない点だ。天国は、あの世はあるのか、というのは宗教、宗派で複雑に解釈が異なるが、本篇はそうした宗教で用いられるロジックや用語に頼っていない。

 作中、死後の世界についての書籍を著す気になったマリーがホスピスを訪ねた際、彼女に資料を提供した研究者が、マリーの体験とホスピスで蘇生を経験した人々の話が一致することに触れているが、それが何であるかどうかについては断言を避け、ただこういう記録がある、と語るに留めている。また、幼い頃の出来事が契機で死者との対話が可能になったジョージにしても、その方法や、彼が語り合う死者が何処にいるのか、という解釈については、決して宗教的なレベルに踏み込んでいない。解釈しすぎず、経験の範囲で物語っていることが、こうした主題を扱うとしばしばまといがちな胡散臭さを抑えている。ロンドンの少年・マーカスの視点で、ジョージとは異なるインチキくさい霊能力者の姿を描いていることも、ジョージやマリーの姿勢の真摯さを強調し、翻っては作品全体に公正さを感じさせる役割も果たしている。

 そうして丁寧に、作品全体の価値観を観る者に浸透させながら、本篇の終わり方は決して大上段に構えていない。その気になれば幾らでも芝居がかった描き方で感動的な終幕を演出出来そうなものだが、むしろ非常にあっさりと片付けている。よくよく彼らの身に何が起きたのか、を考えると、作中ではほとんど何も解決していないのだ。

 にも拘わらず、本篇の結末に胸の暖かくなるような清々しさ、希望の光が見えるように感じられるのは、周到極まりない伏線の為せる技だ。何気ない描写がひとつひとつ結びつき、最後の巡り逢いでの振る舞いひとつひとつに、想い出や生き様への愛おしさが滲み、登場人物の微かな変化を窺わせる。冒頭の津波と中盤でマーカスが遭遇する事件以外にはほとんど大きな事件は起きていないのに最後まで目を惹かれるのも、この伏線の張り方、関心を惹く工夫に優れているが故だ。

 実のところ、表現や画面の色調は、奇妙に醒めていてホラーめいた雰囲気さえある。それが何気ない、むしろ心温まるエピソードでさえ奇妙な緊張感を漲らせていることも、淡々としたシナリオに似合わぬ牽引力を助けている。クリント・イーストウッド自らが手懸けたスコアもまた、その静謐さに味わいを添えており、何処まで狙っていたのか定かではないが、表現のひとつひとつが見事に嵌っている。

 21世紀に入ったあたりから急速に全盛期に突入した印象のあるイーストウッド監督の安定感は、本篇でも健在だ。大上段に構えることなく、何か結論を押しつけることもない、解釈をそっと観客に委ねた本篇は、だがそれ故にとても品のある、穏やかな感動を与えてくれる。賞レースにこそ連ならないまでも、観たあとで確実に、心に何かを残す佳品である。

関連作品:

父親たちの星条旗

硫黄島からの手紙

インビクタス/負けざる者たち

ラストキング・オブ・スコットランド

クイーン

フロスト×ニクソン

スパニッシュ・アパートメント

降霊 KOUREI

コメント

タイトルとURLをコピーしました