『七つまでは神のうち』

『七つまでは神のうち』

監督&脚本:三宅隆太 / 製作:細野義朗 / プロデューサー:高橋樹里、土本貴生、山川雅彦、堀川慎太郎 / 撮影監督:長野泰隆(J.S.C.) / 編集:村上雅樹 / VFX監督:鹿角剛司 / 特殊造形:西村映像 / 音響効果:小山秀雄 / 整音:柞山京一 / 音楽:遠藤浩二 / 出演:日南響子飛鳥凛藤本七海竹井亮介宝積有香、駒木根隆介、松澤一之、霧島れいか、林凌雅、下江梨菜 / 製作プロダクション:アルタミラピクチャーズ / 配給:S・D・P

2011年日本作品 / 上映時間:1時間22分

2011年8月20日日本公開

公式サイト : http://www.nanagami.com/

TOHOシネマズ川崎にて初見(2011/08/26)



[粗筋]

 和泉繭(日南響子)は父・浩一(松澤一之)の運転する車に乗って訪ねたレンタルショップで、異様なものを目撃する。駐車場に駐められていたワゴン車の荷台に、猿ぐつわに目隠し、後ろ手に縛られた少女が積まれていたのだ。繭は父と共に追跡するが、途中で少女が落とされたために、父は相手の所在を確かめるために追跡を続け、繭は少女の傍に留まる。携帯電話は圏外の表示で警察に連絡することも出来ず、繭はとりあえず少女の拘束を解くことにした。現れた顔は、繭にとって見知ったものだった――

 閑静な住宅街に暮らす遠藤真奈(霧島れいか)は連日、ひとり娘のさくら(下江梨菜)が神隠しに遭う、という悪夢を見ていた。さくらはそんなことにはならない、と軽く笑うが、真奈は気が気でない。友達と一緒に鎧山に行く、という娘に、真奈は大切なお守りをきっちりと握らせて送り出した。厭な気配は、最後まで消えなかった――

 岸本薫(藤本七海)は頼まれて、叔母の家の留守番をすることになった。自分に憧れを抱いている修一(林凌雅)をからかうのは愉しいが、薫には叔母の家にひとつ、苦手な場所がある。人形ばかり集められた部屋であった。薄くドアが開いているので覗きこむと、新しい市松人形が増えている。まるで自分のほうを窺うようなその人形に、薫はいつもとは異なる恐怖を感じる――

 新人女優の西川麗奈(飛鳥凛)は、廃校舎を用いたホラー映画撮影のあと、アプローチしてくるロケバスの運転手(駒木根隆介)をかわすため、徒歩で駅まで向かおうと、森を突っ切っていこうとした。だが、そこは何やら異様な気配に包まれており、麗奈の神経を蝕んでいく。やがて彼女は、そこがどういう場所なのか、不意に気がついた。慌てて踵を返し、廃校舎に戻るが、折しもロケ隊の車が走り去ったところであり、彼女は人気のないこの地に取り残されてしまう――

[感想]

 監督の三宅隆太は、2000年代の国産ホラー映画にとって、かなり重要な役割を果たした人物である。CX系で何度かレギュラー化し、2011年の夏にもスペシャル版が放送される人気シリーズ『ほんとにあった怖い話』のドラマパートを幾たびも監督し、『呪怨』にも強い影響を与えた実話怪談『新耳袋』を映像化したオムニバス・ドラマ『怪談新耳袋』では幾つかのエピソードを手懸け、最初の劇場版および2010年に製作された第4作の脚本を担当している。清水崇監督や豊島圭介監督らとともに、日本産ホラーの定番スタイルを確立させた立役者と言ってもいいのではなかろうか。

 そういう人物であるだけに、完全オリジナルであるこの作品も、巧みなストーリー構成と、ツボを心得た恐怖演出で、堂々たる日本産ホラー映画に仕上がっている。

 本篇は序盤、何が起きているのか、何が起きようとしているのかまったく状況が解らない。目まぐるしく入れ替わる登場人物たちの関係性についてもなかなか説明されないので、観る側は五里霧中のままなのだが、静かに緊張を齎し恐怖を募らせる場面を随所に組み込んでいるので、耐えず引っ張られる。

 別の人物、別の場所での出来事に切り替わるのもけっこう唐突なのだが、繋ぎ方が巧妙で、ほとんど意識させない。直前の場面から続く怪奇現象かと思わせて、別の場所で繰り広げられる普通の出来事に連携させ、そこで新たな怪異が登場人物たちを襲う。怪奇現象の齎す緊張と恐怖を持続することで、やもするとバラバラになりがちな物語の牽引力を保ち、そこに存在する謎に観る者を惹きつける。別々の場所での出来事を重ねていく手法は『呪怨』に似ているが、本篇はそれを更に深化させている。

 そうしてバラバラに紡がれた怪異、恐怖が一気に結ばれていくクライマックスの力強さも圧巻――だが、ここの評価は人によって割れるだろう。出来事は如何にもホラーだが、背景が少々安易で、想像に難くないものだからだ。毎年のように多数の行方不明者が出ている、というデータを最初に示したうえで、あれほど異様な出来事を積み重ねた果てに提示された真相がアレ、ということに、拍子抜けする人はありそうだ。

 また、終盤でちょっと意外な事実が示されるが、あれに対する反応は観客の姿勢、内容の理解度に依存する。早いうちから出来事を的確に解釈していた人なら、あの事実はさほど意外ではない一方で、意味をよく理解できないまま、「わけが解らなかった」で済ませてしまう人も出てくるのではなかろうか。なまじ序盤の語り口が優れ、謎解きに関心がない観客でも牽引できる力が感じられるだけに、この終幕の生温さがやや気になる。

 しかし、見方によって反応が異なる、という終幕は、恐らく製作者がはじめから意図したものだろう。本篇はそもそも過剰に説明することをしていないが、細かなところに気を配りながら、敢えて曖昧なままに留めている部分も多数見受けられる。未見の方の興を削がぬために細かくは触れないが、最も象徴的なのは題名である。作中でも主に真奈がモノローグの形で触れる、昔の日本にあったこの考え方は、作中で示される背景を思うと非常に意味深だ。この理屈を敷衍すると、本来この物語にもっと大きく影響を及ぼすべき“モノ”が肝心なところでまったく姿を現さないのも、腑に落ちるように思える。

 物語の背景、終盤の展開に対しては人によって感じ方が大きく異なるだろうが、ラストシーンに感じる重みは恐らく変わらない。従来のホラー映画、とりわけ日本産ホラーは、それまでの悪夢がゆっくりと吸い込まれ消えていく、或いはとどめに新たな恐怖の予兆を残していくような趣向が多かったが、本篇のラストが観客に与える余韻はまるで違う。エンドロールの開始によって断ち切られたかのような絶叫が、胸のうろに響き渡るその感覚は、他に例が思いつかない。

 日本産ホラー映画の完成させた文法に則りながら、含意は豊かで、余韻も深い。一時期の隆盛はすっかり過去のものとなったが、このジャンル、手法にまだまだ可能性があることを示した、物語としては惨くも、作品としては秀麗な1本である。

関連作品:

怪談新耳袋[劇場版]

怪談新耳袋 怪奇

呪怨 白い老女

ノロイ

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