『ひまわり』

『ひまわり』 ひまわり HDニューマスター版 [DVD]

原題:“I Girasoli” / 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ / 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ、アントニオ・グエラ、ゲオルギ・ムディバニ / 製作:カルロ・ポンティ、アーサー・コーン / 製作総指揮:ジョゼフ・E・レヴィン / 撮影監督:ジュゼッペ・ロトゥンノ / 音楽:ヘンリー・マンシーニ / 出演:ソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニ、リュドミラ・サベリーエワ、アンナ・カレナ、ガリナ・アンドリーワ、ゲルマノ・ロンゴ、グラウコ・オノラト、グナール・ジリンスキー、カルロ・ポンティJr. / 配給:Unplugged / 映像ソフト発売元:エスピーオー

1970年イタリア作品 / 上映時間:1時間47分 / 日本語字幕:?

1970年9月30日日本公開

2011年12月17日日本リヴァイヴァル公開

2009年12月2日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]

公式サイト : http://eiga-himawari.com/

新宿武蔵野館にて初見(2011/12/17)



[粗筋]

 ジョヴァンナ(ソフィア・ローレン)がアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)と結婚したのは、折しも始まった戦争から逃れるため、新婚に認められる休暇を利用してやり過ごす、という不純な動機からだった。だが、蜜月のあいだにふたりは、離れては生きていけないことを悟る。添い遂げることを誓い合うようになった。

 だが、ジョヴァンナたちの楽観的な予測を嘲笑うように、戦況は急速に悪くなった。ふたりはアントニオが発狂したように装って派兵を免れようと目論むが、面会の際に熱く抱擁する姿を見咎められてしまう。そうしてアントニオが送り込まれたのは、極寒のロシアであった。

 間もなく夫は出征、そして長い月日が経った。ロシアから兵が帰還しても、終戦の報が届いてもアントニオは戻らない。ロシアから戻る兵が乗った汽車を待っていたジョヴァンナは、彼女が持つ写真に反応した男(グラウコ・オノラト)がいたことに気づき、彼に問い質す。その男は、ロシアの戦場でアントニオとともにいたが、体力を失い、身動き出来なくなったアントニオに促され、彼を置き去りにしてきたのだという。

 あの衰弱ぶりと、極寒のなかに取り残されたことを思えば、生き残っている可能性は皆無に等しい。そう言われても、ジョヴァンナは鵜呑みには出来なかった。いつまでも待つことに倦んだジョヴァンナは、政情が落ち着いたことを理由にして、自らロシア――ソビエト連邦へと乗り込んでいく。

 ジョヴァンナは、復員兵が語っていた、彼がアントニオと最後に別れた場所へと赴いた。そこにはイタリア・ロシア双方の兵を弔う慰霊碑が建ち、周囲にはたくさんのひまわりが咲き誇っていた……

[感想]

 未だに本篇の支持者が多いのは、恐らく音楽の素晴らしさに因るところが大きいのではなかろうか。

 ようやく多少は過去の映画にもそこそこ詳しくなってきた、と言えるようになってきたとは言い条、まだまだ基礎を固めている最中の私でさえ、本篇の音楽には耳馴染みがあった。それだけ引用されていて、しかも印象深い、ということのいい証左だろう。そして、映像とともに聴くと、その印象はいっそう鮮烈になる。

 ドラマ自体はシンプル――というか、もはやすっかり手垢のついた感がある内容だ。戦争によって引き裂かれた男女、その行方を辿ってみた結果判明する真実、といったあたりは要素を入れ換えて繰り返し利用されている。

 本篇のユニークなところは、そうして事実が判明したあとの流れだ。本筋とは直接絡まない描写に情感を湛えながら、物語は意外な変化を続け、切ない結末へと至る。

 あの最後の“意外性”については、決して緻密な伏線が張り巡らされているとは言い難いので、人によっては評価できないかも知れない。かく言う私自身、あの場面には一瞬、割り切れないものを感じた。

 ただ、まるっきり察知出来ない成り行きではない。その前に、こういう展開を迂遠ながら仄めかしている場面がある。

 何より、最後に彼らが出す結論は、ある意味必然的な推移だ。中盤で起きる運命の悪戯さえなければ、恐らくもっと早い段階で悲劇的な、しかし過去ときっちり訣別することの出来る終幕を迎えていただろう。そして、そういうことを窺わせるからこそ、題名にある“ひまわり”の存在が心に残る。本当はあの花の下に埋もれていたかも知れない愛を弔うかのような、大輪の花が見渡す限りに咲き誇る光景が、胸に焼き付けられてしまうのだ。そこに、あの清澄な美しさを湛えた音楽が被ってくるのだから、なおさらである。

 しかし個人的にあの結末に示される出来事には、別の解釈があるように思う。あれは、最後に相手がどんなことを口にするか察したうえで、一方が用意した“嘘”ではなかったか。運命の悪戯さえなければ、ある意味では幸福に終わっていたかも知れないふたりの関係を元の場所に戻し、今ある人生に帰すために、必死の想いで作りあげた芝居だったのかも知れない。

 少々穿ちすぎた見方である、というのは自覚している。だが、あの終幕に至る描写がやや不足しているように感じられるのは、こうした解釈をも受け入れるためではなかったか。そして、そう考えると、最後に登場人物が見せる涙は、いっそうに切ない。

 おおよそのシチュエーションは古びているが、描写に抜かりはない。そのうえ、やや飛躍した見方をする余地も残しており、それでもなお哀切な余韻は残す。何よりも印象的なのが音楽であるのは間違いないが、古臭いように見えても、その磨き上げられた美しさに未だ曇りは窺えない。秀麗なる傑作である。

 なお本篇は、2011年に開催された第2回午前十時の映画祭《青の50本》上映作品の1本として当初告知されていたが、契約上の問題から1年間通しての上映が困難となり、急遽『昼顔』に差し替えになった、という経緯がある。そのため、実際には午前十時の映画祭で上映はされていないが、記録として[asa10]のタグを設定した。

2015/06/03追記

 上記のように、いちどは『午前十時の映画祭』のラインナップから外れてしまった本篇だが、2015年度に開催された『第三回新・午前十時の映画祭』で改めてラインナップに加えられ、無事上映が行われた。

関連作品:

甘い生活

ロング・エンゲージメント

ドクトル・ジバゴ

いちご白書

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