『嗤う分身』

TOHOシネマズ六本木ヒルズ、階段下に掲示されたポスター。

原題:“The Double” / 原作:フョードル・ドストエフスキー / 監督:リチャード・アイオアディ / 脚本:リチャード・アイオアディ、アヴィ・コーリン / 製作:アミナ・ダスマル、ロビン・C・フォックス / 製作総指揮:マイケル・ケイン、グレーム・コックス、テッサ・ロス、ナターシャ・ウォートン / 撮影監督:エリック・ワトソン / プロダクション・デザイナー:デヴィッド・クランク / 編集:ニック・フェントン / 衣装:ジャクリーン・デュラン / キャスティング:ダグラス・エイベル、カレン・リンゼイ=スチュワート / 音楽:アンドリュー・ヒューイット / 出演:ジェシー・アイゼンバーグミア・ワシコウスカ、ウォーレス・ショーン、パディ・コンシダイン、ジェマ・チャン、ノア・テイラー、クリス・オダウド / アルコーヴ・エンタテインメント製作 / 配給:ESPACE SAROU

2013年イギリス作品 / 上映時間:1時間33分 / 日本語字幕:種市譲二

第26回東京国際映画祭コンペティション参加作品

2014年11月8日日本公開

公式サイト : http://waraubunshin-espacesarou.com/

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2013/10/18)



[粗筋]

 サイモン(ジェシー・アイゼンバーグ)は冴えない男だ。いったい何の事業をしているのか解らない職場で淡々と働き、味気ない日々を過ごしている。

 もともと目立たない男だったサイモンは、しかしある時期から急速に存在感を失っていった。IDを紛失すると、毎日出勤しているはずの職場の警備員に入場を止められ、行きつけの店でもいつものメニューが通用しなくなる。

 そこへ、彼の職場に新しい人物が赴任してきた。その名はジェームズ・サイモン――名前自体がサイモンの姓と名をひっくり返しただけだが、姿形も瓜二つ。転属直後から上司のパパドポリス氏(ウォーレス・ショーン)の心覚えは良く、サイモンとは対照的な人付き合いのよさで、一気に職場での存在感を増していく。しかもジェームズ自身はさほど仕事をしていないのに、サイモンの成果を巧みに横取りして、業務上も評価を稼いでいった。

 やがてジェームズは、サイモンの同僚であり、彼が密かに憧れていたハンナ(ミア・ワシコウスカ)と恋仲になってしまう。いつしかサイモンの生活はジェームズによって侵蝕され、彼の居場所をことごとく奪われていくのだった……

[感想]

 ロシアの文豪ドストエフスキー初期の短篇がベースになっているそうだが、あいにく私は原作に接したことがないので、どの程度原作通りなのかは解らない。もし本篇が舞台や時代背景以外、完璧に原作をなぞっているとしたら、そうとうアバンギャルドな代物だっただろう。観終わったとき、私はある有名な映画を思い出したが、それは結末に抵触しかねないので言及しないでおく。

 粗筋だけ眺めるとどこかホラー風、或いはSF風の作品を想起しそうだが、しかし本篇はそのどちらとも言い難い。設定はSFのようだが、しかし恐らく観客が求めるような解決は本篇で提示されず、観終わったあとでSFっぽさを感じているひとは皆無だろう。

 まして、ホラーか、と問われると、首を傾げるひとがほとんどではなかろうか。何故なら、次第に主人公の存在感が侵蝕されていく、という過程が、字面で見るよりも遥かにコメディ・タッチで描かれているからだ。粗筋で言及した警備員とのくだりや飲食店の従業員とのやり取りもそうだが、エレベーターの照明が反応しなかったり、といった些細な影響など、哀愁混じりの笑いを誘う。“分身”たるジェームズの登場で一時的に暮らしに活気が生まれるのも、あとの展開の切なさ、苦笑いをいや増している。

 舞台も時代も判然としない世界観に、切ないユーモアを孕んだ描写、それに加えて本篇のイメージを更に奇妙なものにしているのがBGMだ。何故か、本当に何故なのかさっぱり解らないが、日本の歌謡曲がやたらと採り入れられているのである。私は最初、食堂で妙に耳馴染みのある音楽が聴こえてくる、と思ったらそれが明らかに日本語の曲で驚いたのだが、これが何度も続く。しかもこうした作中の環境音の一部として用いられているだけでなく、しっかりと劇伴として使われている場所が複数あるのだ。『上を向いて歩こう』は海外でも著名なのでまだ解るが、『ブルー・シャトウ』や他の歌謡曲はいったいどこから引っ張り出してきたのか。恐らく海外のひとにとっても、どこか無機質な映像空間にこうしたエキゾチックな音楽が流れるさまは奇異に映るだろうが、日本人にとってはよけいに奇っ怪な世界に見える。こんな世界なら何が起こっても不思議ではない、と思えてしまう。

 基本コミカルでシュールな話が続くが、しかし終盤に至ると奇妙な緊迫感が漲りはじめる。ある人物を巡る不幸な顛末ともあいまって、観ている側も焦躁し、どう決着させるのか、と手に汗握ってスクリーンに見入ってしまうはずだ。

 終幕の趣向はそれまでに輪をかけて人を食ったような代物で、或いはあれがどうしても腑に落ちず、本篇を低く評価するひともあるかも知れない。ただ、もしここで中途半端に合理的な解釈を提示したら、却って作品を小さくしてしまう。作中の世界観や描写に則り、カタルシスをもたらすことの出来る結論は――他にも考えられるだろうが、いちばん適当なもののひとつだろう。惜しまれるのは、伏線が見え見えなので、多少目端の利くひとなら察知出来てしまうことと、あの結末の趣向それ自体が、前述したようにある有名な映画を彷彿とさせることだが、趣向自体は前例があっても、発想と展開、収束は一貫しており、その質の高さは評価したい。

 描写それぞれに細かな解釈を施すようなひとでないと、終わって釈然としない気分を背負う可能性はあるが、しかし同時に場面場面のシュール、ユニークさに惹きつけられ、観ているあいだ言いようのない幻惑と奇妙な興奮が味わえる。一筋縄でいかない構想で仕立てながら、エンタテインメントとしても愉しめる、ちょっと風変わりな1本である。これを書いている時点で、日本での劇場公開は未定のままだが、作中に日本の歌謡曲を盛り込んだ不思議さは日本人だからこその楽しみ方もあるはずで、小規模でも各地で上映される機会があればいいのだが。

2014/7/27追記

 ――とか書いていたら、本当に日本での公開が決まってしまった。東京国際映画祭上映時は原題を留めた『ザ・ダブル/分身』というタイトルが仮につけられていたが、『嗤う分身』というちょっと穿った邦題を冠し、2014年11月8日にシネマライズなどで公開されるという。本稿で興味を持った方は、もうしばらくお待ちいただきたい。

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