『ゴジラ(1954)』

神保町シアター、入口脇に掲示されたポスター。 ゴジラ(昭和29年度作品)【60周年記念版】 [Blu-ray]

原作:香山滋 / 監督:本多猪四郎 / 特殊技術:円谷英二 / 脚本:村田武雄、本多猪四郎 / 製作:田中友幸 / 製作総指揮:森岩雄 / 撮影監督:玉井正夫 / 美術監督北猛夫 / 美術:中古智 / 照明:石井長四郎 / 編集:平泰陳 / 録音:下永尚 / 音響効果:三縄一郎 / 音楽:伊福部昭 / 出演:志村喬河内桃子宝田明平田昭彦堺左千夫村上冬樹、山本廉、鈴木豊明、馬野觥留子、岡部正、小川虎之助、手塚克巳、橋正晃、帯一郎、中島春雄笈川武夫、林幹、恩田清二郎、菅井きん、榊田敬二、高堂国典、東静子、鴨田清 / 配給&映像ソフト発売元:東宝

1954年日本作品 / 上映時間:1時間37分

1954年11月2日日本公開

2014年6月18日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazonBlu-ray Discamazon]

公式サイト : http://godzilla.jp/

GODZILLA公開記念・生誕60周年 ゴジラ映画総進撃』(2014/3/8〜2014/4/11開催)にて上映

神保町シアターにて初見(2014/03/10)



[粗筋]

 それは太平洋上で突如として始まった。北緯24度、東経141度地点で貨物船が忽然と消息を断ち、捜索のために向かった船も、生存者を救出した漁船でさえも遭難してしまう。辛うじて残された証言は、「海が突然、爆発した」。

 漁船から命からがら脱出し、大戸島の海に流れ着いた漁師の政治(山本廉)は、彼らを襲ったのが巨大な生き物だった、と証言する。だが、老いた漁師は政治の話に加え、不漁続きの現状に表情を曇らせる。大戸島には言い伝えがあり、不漁が続くとき、沿海にいる巨大な化け物が魚を食い荒らしており、乙女をひとり生贄に捧げるまで、収まらないという。

 大戸島で取材をした新聞記者・萩原(堺左千夫)は真に受けていなかったが、間もなく訪れた暴風雨のなか、島の集落が巨大な何かに襲われ、彼が足として用いたヘリコプターが無惨に潰されていたのを見て、政治の証言を信じざるを得なくなる。

 この未曾有の事態に、生物学者の山根博士(志村喬)を筆頭とした調査団が大戸島に赴いた。巨大な足跡のように見える破壊の痕跡、その随所に留められた放射線の反応、そしていまは絶滅したはずの三葉虫の死骸――これらから、確信を強めていた山根博士は、間もなく物証を目の当たりにする。轟く足音とともに、山の向こうから現れたのは、巨大な生物の頭だった。

 山根博士は、大戸島の伝承になぞらえ、その未知の生物を“ゴジラ”と呼んだ。200万年前のジュラ紀から生き延びてきたそれは、恐らく太平洋の深海に身を潜めていたが、近年の水爆実験によって住処を奪われ、食糧を求めて人里を目指している、と博士は推測する。ほどなくして、博士の危惧は現実のものとなるのだった……

[感想]

 もはや“怪獣”の全世界的スタンダード、と言っていい“ゴジラ”シリーズの第1作である。予告篇の時点から「ハリウッドを凌ぐ特撮技術」と謳っているあたり、多少なりとも気概を籠めて製作をしていたことは察せられるが、よもやここまで長く生き延び、内外問わず後進に大きな影響を与える作品に成長するとは、当時の作り手のひとりとして想像していなかったのではなかろうか。

 とはいえ、CGを用い、極限までリアリティを突き詰めた昨今の作品に接した眼で鑑賞すると、やはりミニチュア主体で生み出した本篇の特撮には未熟さを感じてしまう。建物を踏み潰すほどの巨大生物の脅威を描いている、とは言い条、冷静に眺めると重量感がまだまだ乏しい。ボロボロになった建物や、ひしゃげて風に煽られるヘリコプター、押し寄せる波など、サイズは巧みに実物に見せかけているが、やはりどうも印象が軽いのである。水なんて液体だからミニチュアでも大差はない、と思ってしまいそうだが、しかしこれすら、たとえば現実の大きな波や、近年の生々しさを追求した映像と比較すると、重みがない。いまなら効果音でフォローするだろうな、という箇所を無音で残しているのも、恐らくは演出意図があってのものではないだろう。

 また、シナリオにもやや掘り下げが不充分なところを見受ける。ゴジラの破壊行為が恣意的に見える、というのはまあいいとしても、この一大事に結婚のことを気にしているヒロインと恋人、という図式はどうしても暢気に映ってしまう。いったいどのタイミングで市民が非難を始めているのか、という点もまだぎこちないし、対策本部の様子など、災害の矢面に立つひとびとの振る舞いもどこか危機感に欠くようだ。もっとも気になったのは終盤、ゴジラ打倒のために用いられる“武器”の描写だ。ああした背景があるなら、やってはいけない対応を平然としていることをあっさり看過しているのが、気になり出すと引っかかって仕方ない。

 だが、これは多くの後継作品によって、題材や表現手法が洗練されていったからこそ感じる問題点だ。本篇が製作されたのがいまから60年も前であることを考えれば、その創意工夫は眼を見張るものがある。

 この“ゴジラ”という存在の興味深いところは、人間にとっては“自然災害”であると同時に、“戦争”をも象徴するものとして扱われていることだ。作中、初めてその姿を現す場面は、ゴジラが原因ではないはずの暴風雨を伴い、以後もそれは忽然と、嵐のように訪れて街を蹂躙する。ゴジラが襲撃したあとの街の有様は爆撃を受けたかのようだが、作中で推測されるゴジラ出現の契機、そしてクライマックスで描かれる科学者・芹沢(平田昭彦)の葛藤の意味も含め、ゴジラは従来と異なるかたちでひとびとを襲う“戦争の恐怖”そのものなのだ。

 そういう未知の脅威がもたらす、様々な災厄のヴィジュアルやその再現にしても、ミニチュア主体だが多くのアイディアを用いてリアリティを演出しようと細かな工夫が施されている。逃走するひとびとは実景を用い、ゴジラが暴れる様子はミニチュアで撮影して一部だけ重ねる、というのも、慣れている者からすれば一目瞭然だが、その発想に挑んで現実を超越した災厄を描き出す意欲と努力は窺える。建物が天井から崩れ落ち、鉄塔が熱線に溶解し、列車の車両に噛みつくゴジラの“勇姿”は、こうした映像に接した経験の少ない子供たちは恐懼するだろうし、その制作過程を想像出来る大人であれば興奮を覚えるだろう。

 今となってはその創意と熱意のほうにより価値がある、というのが率直な印象だったが、だからこそ本篇はそう簡単に滅びることはない、と思う。以後、およそ50年にわたって続篇が作られるうちに、人類の味方になったり親になったり、果ては自らの機械版と戦わされたり、と様々な紆余曲折を辿ることになるが、すべての『ゴジラ』の原点として、“怪獣”映画の基礎を作りあげた作品として、いつまでも世界中で鑑賞されるのは間違いない。

関連作品:

姿三四郎』/『七人の侍』/『雪の断章−情熱−』/『ぼくのおばあちゃん

クローバーフィールド/HAKAISHA』/『トロール・ハンター』/『パシフィック・リム

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