『浮雲(1955)』

TOHOシネマズ日本橋、スクリーン1入口前に掲示された案内ポスター。 浮雲 【東宝DVDシネマファンクラブ】

原作:林芙美子 / 監督:成瀬巳喜男 / 脚本:水木洋子 / 製作:藤本真澄 / 撮影:玉井正夫 / 美術:中古智 / 編集:大井英史 / 特殊技術:東宝技術部 / 音楽:斎藤一郎 / 監督助手:岡本喜八 / 出演:高峰秀子森雅之中北千枝子、木村貞子、山形勲岡田茉莉子加東大介、瀬良明、千石規子、木匠マユリ、村上冬樹、大川平八郎、金子信雄 / 配給&映像ソフト発売元:東宝

1955年日本作品 / 上映時間:2時間4分

1955年1月15日日本公開

午前十時の映画祭7(2016/04/02〜2017/03/24開催)上映作品

2014年9月17日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]

TOHOシネマズ日本橋にて初見(2017/3/13)



[粗筋]

 昭和21年、幸田ゆき子(高峰秀子)はようやく日本に帰りついた。タイピストとしてフランス領インドシナの領事館に勤めていたゆき子は、赴任していた役人の冨岡兼吾(森雅之)と深い仲になり、帰国後に結婚の約束を交わしていた。

 しかし、冨岡には邦子(中北千枝子)という妻がいた。別れてゆき子と一緒になる、と言っていた冨岡だったが、ゆき子が彼の家を訪ねると、そこには未だ邦子がいたのである。終戦と共に心持ちが変わり、苦労をかけた妻を放っておけない、という冨岡の言葉に、ゆき子は悲嘆に暮れた。

 職を得、自活する道を探るゆき子だったが、未だ戦争の傷癒えやらぬ街に、身寄りのない女の行き場は乏しい。気づけばゆき子は進駐軍相手に春をひさぎ辛うじて糊口をしのぐようになっていた。

 そんなゆき子の侘び住まいに、不意に冨岡が訪ねてくる。帰国後、役人を辞していた冨岡もまた、着手した事業が立ちゆかず苦労を重ねているらしかった。以後も頻繁に顔を見せる冨岡を、ゆき子には拒絶することが出来なかった。

 やがて米兵からの収入も乏しくなったゆき子は、冨岡に誘われて伊香保温泉へと赴く。ゆき子と心中するつもりだった、と言いながらも冨岡は旅を楽しみ、知己を得た飲み屋のあるじ・向井清吉(加東大介)に腕時計を売り払った金で滞在を延ばした。

 帰京ののち、ゆき子が冨岡の子を身籠もっていたことが判明する。そのことを知らせるべくゆき子は冨岡の家を訪ねると、彼は引っ越したあとだった。郵便の転送先を訪ねると、あろうことか冨岡は、清吉の妻であったおせい(岡田茉莉子)と同棲していたのだった……。

[感想]

 この作品を何よりも象徴するのは、本篇の最後、“終”の文字の代わりに提示される有名な一節だろう。ご存じない方にはあのラストで眼にしたときの感慨を味わっていただきたいのでその内容には触れないが、あの一節はこの物語にこそ相応しい、と実感するはずだ。

 最初こそ、背景を戦争に置きながらも、単なる痴情のもつれ程度の出来事に映る。愛人の家を訪ねた女が、そこに愛人が別れると言っていたはずの女を見たときの繊細な表情。無責任な愛人の言動に対する苛立ち。そうした演技、表現は巧みだが、成り行きそのものは有り体に映る。

 しかし、そこからが有り体とは言い難い。この期に及んでもふたりはその後も関係を持ち続ける。自ら別れを提案しながら、臆面もなく訪ねていく男の身勝手さにも苛立つが、女がどうして拒絶しないのか不思議に思えるほどだ。

 ここには間違いなく、戦争を含む“時代”というものが関わってくる。戦前までならタイピストという職業はそれなりに潰しが利いた、と考えられるが、終戦後はそうはいかなかった。本篇においては、それまでは“敵性語”と呼ばれ排除されてきた英語が出来なければ雇えない、と門前払いを食う場面が描かれる。すべての求人がそうではなかっただろうが、南方帰りのヒロインがすぐに収まりことの出来る働き場所は恐らく少なかった。誰もが自分が生きていくだけで懸命だった時代、機を逸した女性が一足跳びのように米兵相手の売春婦になってしまう状況も、充分にあり得ただろう。

 間違いなく当人にとって不本意な状況は、男への執着を却って募らせたのではないか。本当はこんなはずではなかった、もしこの男が約束していた妻の座を与えてくれたなら、また事態は変わるはず。客観的に見れば、甲斐性なしとしか思えない富岡という男が約束を果たすことなどなさそうに思えるが、不本意な境遇ゆえのほのかな期待が、ヒロインの意思を常に揺らがせたのかも知れない。脚色を担当した水木洋子は、ここまで両者が互いに執着した理由を“身体の相性が良かったんじゃない?”とかなりばっさりと切っていたそうだし、恐らくそれも本当に大きなポイントだったのだろうが、“時代”のバイアスも決して小さくはなかったはずだ。そうして為す術もなく翻弄される女の哀しさが、本篇を覆っている。

 しかし他方で、男の業の深さも巧みに剔出した作品でもある。ろくでもない甲斐性なし、と切って捨てるのは簡単だが、富岡という男の言動には、男の“理想”と“現実”とが複雑に織り交ぜられているように思う。

 もともとこの男は仕事が出来なかったわけではない。役人として仏印に出向しているのは、それだけの能力は評価されていたことが窺える。ゆき子をはじめ多くの女が彼に惹かれるのは、それだけの魅力は確かにある証左だろう。その一方で、苦労をかけた妻を見捨てることが出来ず離縁に踏み切れないことも、収入がままならないなかでもゆき子の状況にいちおうは配慮し金を用意しようとするあたりには、己の罪深さを自覚し、責務を果たそうとしていると捉えられる。

 そうしたひとつひとつの言動から考えていくと、富岡をまるっきりの無責任なろくでなし、と評価するのは必ずしも当たらない。そもそも安易に女に手を出したり、関係を持った相手のもとを転々とするあたりは如何ともし難いが、それとて翻って考えれば、かつてはある意味“男らしい”、“甲斐性がある”と言われていた言動を敷衍しているとも言える。

 捉えようによっては、富岡もまたそうしたステレオタイプな“理想の男性像”に囚われ続けた犠牲者、とも解釈出来はしまいか。どこかで身の程を弁え、みっともなくとも尻をまくって逃げ出していれば、こんな顛末は迎えなかっただろう。男かくあるべき、という発想が何処かにあったことが、彼自身を、そして執着し続けるゆき子をも縛ってしまった。

 戦争という、時代のもたらした大きすぎる変化が、このふたりの人生を破壊し、浮雲の如き生き方を強いた。そう解釈すると、なおさらに彼らの姿は哀れだ。

 カメラは決して美しい景色を追いすぎず、それぞれの時期の境遇に寄り添った会話や心理描写を中心に切り取っていく。背景に時代を滲ませながらも、そこにいるひとびとの目線を汲み取る表現は、時代を超えた説得力がある。あまり色気を強調することなく、淡々と、しかし切々と演じたメインふたりの佇まいが、観終わったあとも印象深い。

 この時代、このスタッフとキャストだから出来た作品であり、現代に舞台を移しても、そのままの設定でリメイクしたとしても、この情緒を再現は出来ないだろう。それでいて、いま観ても響くものがある、時代を超えた普遍性をも備えた、驚くべき傑作である。

関連作品:

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