『ブラインドネス』

『ブラインドネス』

原題:“Blindness” / 原作:ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(日本放送出版協会・刊) / 監督:フェルナンド・メイレレス / 脚本:ドン・マッケラー / 製作:酒井園子、アンドレア・バラタ・リベイロ、ニヴ・フィッチマン / 製作総指揮:ゲイル・イーガン、サイモン・チャニング・ウィリアムズ / 撮影監督:セザール・シャローン / 美術:トゥレ・ペヤク / 編集:ダニエル・レゼンデ / 衣装:レネー・エイプリル / 音楽:マルコ・アントニオ・ギマランイス / 出演:ジュリアン・ムーアマーク・ラファロダニー・グローヴァー、アリス・ブラガ、伊勢谷友介木村佳乃、ドン・マッケラー、モーリー・チェイキン、ミッチェル・ナイ、ガエル・ガルシア・ベルナル / 配給:GAGA Communications

2008年ブラジル・カナダ・日本合作 / 上映時間:2時間1分 / 日本語字幕:太田直子

2008年11月22日日本公開

公式サイト : http://blindness.gyao.jp/

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2008/12/18)



[粗筋]

 始まりは、車でごった返す幹線道路。一台の車が、信号が青になっても出発しない。足止めを喰らった車の運転手や、周辺を歩いていた人が運転席を覗きこむと、アジア系のその男性は叫んだ。「目が見えない」――彼が、それから世界を襲う未曾有の“病”の、最初の発症者(伊勢谷友介)だった。

 親切な通行人が最初の発症者の代わりに車を運転し、彼を家まで連れて行ったが、親切な通行人は泥棒(ドン・マッケラー)となって、発症者を家に戻したあとで車を持ち逃げしていった。最初の発症者の妻(木村佳乃)は専門医に診てもらうのが最善だと思い、眼科医の診断を仰ぐ。しかし診察した医師(マーク・ラファロ)は、外傷などは存在せず、心因性の可能性が高いと判断、いずれ治るだろうと発症者を帰してしまった。

 だが医師は帰宅したあとも例の発症者の件が頭から離れず、その詳細を妻(ジュリアン・ムーア)に話した。視野が白くなることを除けば既知の症状に似ていたが、正体は解らない。しかしあくる朝、医師は発症者の語っていた症状を、身をもって理解する――医師もまた、発症したのだ。

 この日、“白い病”を発症したのは、医師だけではなかった。ちょうど最初の発症者が診察に訪れた際、待合室に居合わせた人物――サングラスをかけた女(アリス・ブラガ)や、治療に訪れていた少年などを皮切りに、“白い病”は爆発的に世界を席巻していく。

 治療法も発見できず、驚異的な感染力を前に為す術もない政府は、ひとまず発症した人々を廃病院に隔離する策を採った。医師もすぐさま防疫用の救急車によって搬送されることが決まったが、医師の妻も「いま目が見えなくなった」と告げて同乗する。実際には見えているにも拘わらず。

 最初の発症者に、彼から車を盗んだ泥棒、サングラスをかけた女に、やはり医師の診察を受けていた眼帯の男(ダニー・グローヴァー)……感染拡大を怖れるあまり、視力のある看護人すら用意されていないというのに、トイレなどの水道設備は病室から隔たった場所にある。潜伏した医師の妻ひとりで面倒を看るのにも限度があり、隔離病棟の衛生状態は急速に悪化していった。

 そうしているあいだにも新たな発症者が次々と送りこまれ、隔離病棟はあっという間に収容能力の限界に達してしまう。隔離病棟内はいつしか地獄絵図の様相を呈してきたが、しかし事態は更に悪化していくのだった……

[感想]

 ノーベル文学賞を獲得した作家ジョゼ・サラマーゴの代表作とも言われる傑作『白の闇』の映画化である。

 粗筋を見て、固有名詞がほとんど登場しないことを訝しんだ人もいるだろうが、これは原作でも用いられていた趣向である。原作では文字しか情報がないことを逆手に取って、登場人物がせいぜい性別と大まかな年齢しか解らないように描写している。見えないために、人々が知らずに基準としてしまう人種の境さえ取り払い、より根源的な感情を剔出する試みなのだ。付随するように、固有名詞すら剥奪しているのである。

 本篇は、部分的に補強したり省いたりしたところは当然存在するものの、原作をほぼ忠実に映像化していると言っていい。ただそれ故に、改めて原作の、小説という特性を存分に活かした驚異的な完成度の高さを証明してしまった感がある。

 原作者のジョゼ・サラマーゴは本篇の“全人類が失明する”という想を得たとき、同時にこういう結論も導き出したという――「だが、私たちははじめから目が見えないも同然ではないか」。原作はこの結論を悲痛なほど強烈に読者に実感させることに成功しているが、もし原作に触れないまま映画版を鑑賞したとしたら、恐らく同じ感慨に誰しもが辿り着くとは言えないだろう。

 エピソードが幾つか削られているせいもある。小説であれば可能な、直接的な心情の描写が出来なかったことも一因だろう。だが何より大きいのは、観客の前に感染者たちの姿が晒されてしまっていることだと考えられる。

 原作は固有名詞のみならず、外見に関する情報も排除することで、登場人物たちの個性を純化させた。だが映画版では、固有名詞については省くことに成功したものの、人種や容貌といった視覚的な情報を示してしまっている――無論、映画である以上防ぐことなど出来ないのだが、そのジレンマが、小説として揺るぎようのないほどに完成された作品を映像化するうえで大きな障害となってしまった。何もかもが生々しく目前に晒されている状況で、「目が見えていても、失明していると同然だ」という結論には辿り着きにくいのである。

 とは言い条、前述の通り重要な部分はきっちりと押さえたうえで、それらを極限まで活かしうる演出を選択している本篇は、完璧に近い小説を無理にでも映像化した作品としては理想に近い仕上がりにある。フェルナンド・メイレレス監督は前作『ナイロビの蜂』でハンディ・カメラの利点を駆使した映像により、物語にリアリティを付与していたが、本篇もまた繊細に再現した舞台のなかにハンディ・カメラの視点を持ち込むことで、その地獄絵図のような状況を生々しく描き出している。そのせいで逆に、本来最も鮮烈に感じられるはずだった、終盤のあるモチーフが埋没気味になったのが残念だが、メイレレス監督とその手法によって構築されたのは作品にとって幸運だったろうと思う。

 また逆に、観客には登場人物たちの容貌や行動がきちんと見える、ということを利用した描写を追加して、物語に味わいを添えている点もある。いちばん解りやすいのは、最初に発症する男とその妻を、日本人にしたことだ。彼らに日本人ならではの想いを会話に織り交ぜることで、人種を問わない被害の拡散ぶりがストレートに伝わってくる。他にも、中盤で登場するある憎まれ役について、「声を聞けば解る、あいつは黒人だ」と漏らす男がいるのだが、実はその彼が語りかけているのが黒人である、といった具合に、誰もが視力を喪っているがゆえの皮肉、滑稽さ、もの悲しさを、怠ることなく随所に鏤めているのも見逃せない。

 それにしても、終盤で衝撃を受けるのは、原作を読んでいるときには感じなかったのだが、中心となる人物たちが隔離病棟を脱して触れる外の世界が、さながらゾンビ映画の描く終末じみていることだ。荒廃する街の姿といい、あちこちを徘徊する人々の姿といい、『ランド・オブ・ザ・デッド』や『28日後…』を彷彿とさせる。見えることを活かして、他の人々が発見できなかった食糧を携えて現れた医師の妻に、匂いでそれに感づいた人々が群がる場面など、まるっきりゾンビ映画なのだ。無論ゾンビのように理性も思考も喪っているわけではない、きちんと会話も交わせる人々が、誰もが盲目である、という状況に置かれただけでこういう状態に陥る、という可能性をまざまざと示されると、かなりぞっとする。

 他方で、本当に惨い描写や、嫌悪感を齎す表現について、極力節度を保っている点も本篇は巧い――むしろ、だからこそ細かな出来事の衝撃度が増しているとも言える。そこまで節度を保ちながら、敢えてダイレクトに描いた部分の強烈さは見事だ。

 徹底的に絶望へと追いやりながら辿り着いた結末は、しかし意外なほど未来に希望を持たせるものである。原作を読んでいると、この点もいささか不満を覚えるところだ。あの事実は、“見えない”ということを前提に積み上げられた暮らし方や絆を破綻させる予感をも齎しており、またそれまでに暴かれた人間の本性を思えば、むしろ明るい未来ばかり望むことは難しいだろう。

 しかし、原作を念頭に置かなければ、これほど衝撃的な作品も珍しいし、またそうした嫌味を考慮しても、本篇があの小説の映像化としてほぼ理想的な仕上がりであることも事実である。娯楽作品とは言いがたいし、背後に横たわる主題を読み取るとおよそ明るい気分にはなれない代物だが、一見の価値は間違いなくある。もし観終わったあとも何かしらモヤモヤした気分が残ったのであれば、出来れば原作にも目を通していただきたい、と念のために言い添えた上で。

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