『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』

『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』

原題:“George A. Romero’s Diary of the Dead” / 監督・脚本:ジョージ・A・ロメロ / 製作:ピーター・グルンヴォルド、サム・エンゲルバール、アート・シュピーゲル / 製作総指揮:ダン・ファイアーマン、ジョン・ハリソン、スティーヴ・バーネット / 共同製作:ポーラ・デヴォンシャイア / 撮影監督:アダム・スウィカ,CSC / 美術:ルパート・ラザルス / 特殊メイク:グレッグ・ニコテロ+ガスライト・スタジオ / 編集:マイケル・ドハティ / 衣装:アレックス・カヴァナー / 音楽:ノーマン・オレンスタイン / 出演:ミシェル・モーガン、ジョシュ・クローズ、ショーン・ロバーツ、エイミー・ラロンド、ジョー・ディニコル、スコット・ウェントワース、フィリップ・リッチオ、クリス・ヴァイオレット、タチアナ・マスラニー / アートファイアー・フィルムズ製作 / 配給:Presidio

2007年アメリカ作品 / 上映時間:1時間35分 / 日本語字幕:川又勝利 / R-15

2008年11月15日日本公開

公式サイト : http://www.diaryofthedead.jp/

銀座シネパトスにて初見(2008/12/19)



[粗筋]

 ……その日、ジェイソン(ジョシュ・クローズ)たちはペンシルバニアの山奥で映画の撮影を行っていた。大学の卒業制作として、3日間の日程で臨んだはずの撮影は既に1週間近くかかっており、参加者たちは言い争いが絶えないほど苛立っている。

 そんな中、音声担当のエリオット(ジョー・ディニコル)が、ラジオで奇妙な報道をしていることを仲間たちに伝えた。各地で屍体が蘇り、人を襲う事件が相次いでいるという。懐疑主義のトニー(ショーン・ロバーツ)はいい加減で大袈裟な報道だと切って捨てるが、こんな状況で撮影を続けていられない、という意見が大勢を占め、映画でミイラ役を務めていたリドリー(フィリップ・リッチオ)とフランシーンが先に去ると、残った者たちも撤収を決意した。

 ジェイソンは交際相手であるデブラ(ミシェル・モーガン)を連れて行くため、いったん女子寮に赴くが、そこは既にほぼもぬけの空となっており、デブラはひとり部屋に籠もっていた。事件現場で死んだはずの人々が、搬送中に起き上がって警官達を襲う姿が繰り返し流れるモニターの前で、固定電話はずっと留守電のまま、携帯電話も繋がらない有様に、デブラは著しく動揺している。ジェイソンは彼女を家族のもとへ連れて行くために、撮影に用いていたバスに同乗させた。

 女子寮に入っていくあいだも、移動中の車内でも、ジェイソンはカメラを回し続ける。どうやら大規模に発生していると思しいこの異常事態を記録しておく、という大義を掲げるが、バスの持ち主でずっと運転を続けているメアリー(タチアナ・マスラニー)やデブラは不快感をあらわにする。

 ほとんど往来のない道路で、やがて一台の車がバスを追い抜いていった。しかし間もなくジェイソンたちは、その車が他の車と衝突炎上して横転しているのを発見する。その物陰から現れたのは、黒こげになりながらも歩き回る、生ける屍であった……

[感想]

 今年は『クローバーフィールド/HAKAISHA』『REC/レック』と、P.O.V=主観撮影と呼ばれる手法の良作が立て続けに日本で公開された。あちらでどの程度、こうしたスタイルの作品が公開されているのかは定かではないが、手法として定着してきているのだろう。

 本篇もまた、この手法を用いて撮影されている。公開こそ日本では年末になったが、製作自体は2007年に行われ、時期的には前期2作と重なっていると思われる。いずれもこの手法ならでは、という物語を構築するのに成功しているが、本篇は主題そのものに組み込まれているという点で、ある意味最も掘り下げた1本だ。

 一時期センセーションを巻き起こした『ブレアウィッチ・プロジェクト』からしてそうだが、そもそもこの手法やホラーやサスペンス、パニック映画など、臨場感が効果を齎す作品において多用される。映画界に“ゾンビ”という要素を定着させた第一人者であるジョージ・A・ロメロ監督が着目するのは当然だが、批判精神に富んだこの監督は、スタイルそのものを敷衍して、パニックに陥った際の政府やマスメディアの姿勢を皮肉り、更にはハンディ・カメラやネットワークの普及によって一億総ジャーナリスト化した時代に、如何に客観性を保つことが困難なのか、情報の取捨選択が難しいかにも言及している。

 主にカメラを構えるジェイソンは序盤から折に触れ、この状況で敢えて撮影をする意義を説いている。最初のうちこそ、のっけで伏線が張られている通り、ドキュメンタリー映画監督志望であったため千載一遇の機会に乗っかった、というだけの意識だっただろうが、恋人から繰り返し「どうして撮る必要がある?」と問われることで、余計に責任感に駆られたかのように、自らの体験をフィルム(実際にはHDDだろうが)に収めていく。普通に撮っていてもおかしくない場面、強制されてカメラを収め撮影されなかった場面、など取捨選択もリアルであるため、余計にその描き方は生々しい。

 その代わり、私たちがゾンビ映画と聞いて思い浮かべるような、突然の出現に登場人物が悲鳴を挙げ、観ているこちらまでが肝を冷やす、そんな場面が思いの外少ない。予告編では幾つか登場するが、本篇はそれに幾つか付け足した程度で、しかもかなり必然的な経緯で用いられているために、そこで無意味な恐怖を植え付けることはない。

 むしろ、行く先々で既に“生ける屍”の惨禍が広がっていること、それをじわじわと認識していく過程そのものがおぞましい。特にジェイソンたちが最後に訪れる先で段階的に示される経緯は、オーソドックスな手順を辿っているように見えて実に絶妙だ。

 かなり低予算で製作されたと思しく、ところどころでインサートされる暴動などのシーンを除いて群衆を撮していないが、それ故に氾濫した情報との距離感が巧みに表現されている。ゾンビそのものの表現に目新しさはないが、その分演出上での工夫が随所に見受けられるあたりも意欲的だ。

 挙句に辿り着くのは、単純に人類の滅亡を示唆するのとは異なる、重々しい絶望に彩られている。だが、そこに不満を抱くような人はそもそもロメロのゾンビ映画など観たりしないだろう。前作『ランド・オブ・ザ・デッド』同様に、まだこのテーマに新たな切り口があることを示した、巨匠の堂々たる名作である。

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