『へんげ(併映:大拳銃)』

『へんげ』

大拳銃 クレジット

監督&脚本:大畑創 / 製作:名倉愛、三島裕二、除剞・_志 / 撮影:梶田豊土、朴潤、岡安 / 照明:竹内郁、吉川慎太郎、玉川直人 / 美術:伊藤淳、間野ハヤト、比木暁、秋山直人 / 録音:成清翔太、小畑康介、春日和歌子 / 出演:小野孝弘、岡部尚宮川ひろみ、三宅和樹、杉江義浩、小田篤

2008年日本作品 / 上映時間:31分

へんげ クレジット

監督、脚本&編集:大畑創 / 製作:名倉愛、藤岡晋介、加藤綾佳 / 撮影:四宮秀俊 / 照明:玉川直人、星野洋行 / 美術:伊藤淳、間野隼人、福井早野香 / 特技監督:田口清隆 / 特殊メイク:宇田川祐 / 衣装:加藤麻矢 / 録音:高田伸也、新垣一平、根本飛鳥 / 音楽:長嶌寛幸 / 出演:森田亜紀、相澤一成、信國輝彦

2011年日本作品 / 上映時間:54分

共通クレジット

配給:KING RECORDS

2012年3月10日日本公開

公式サイト : http://hen-ge.com/

シアターN渋谷にて初見(2012/04/14)



[粗筋]

大拳銃

 縣郁夫(小野孝弘)が経営する町工場は、今般の不況のあおりで倒産寸前に追い込まれていた。そこへ、知人の霜島弘毅(三宅和樹)は奇妙な仕事を依頼する。彼が持ち込んだ拳銃のコピーを、十挺製造して欲しい、というのだ。ノウハウは皆無だったが、郁夫は弟の聡(岡部尚)とともに見よう見まねで製造を開始する。一歩間違えば大怪我も免れない危険な工程を経て、郁夫たちはどうにか十挺を完成させるのだが、取引相手は「調整不足だ」と難癖をつけて返品、更に40挺の製造を突きつけてくる。

 昼夜を問わない作業のなか、だが郁夫はいつしか拳銃作りの魅力に取りつかれ、依頼にはない、別の拳銃を作りはじめていた……

へんげ

 門田吉明(相澤一成)はしばらく前から、奇妙な発作に悩まされていた。てんかんにも似た痙攣を引き起こし、不気味な咆哮を上げる。エリート外科医であった吉明は、この病を発症して以来、自宅に籠もり、彼を診察する元同僚の坂下稔(信國輝彦)が手配する翻訳の仕事で、辛うじて外部と繋がっている状態だった。

 その晩、吉明は特に激烈な発作を起こしていた。気遣う妻・恵子(森田亜紀)は、夫が異様な“変化”を遂げていくさまを目の当たりにする。気絶し、ふたたび目醒めた朝、吉明の姿はもとに戻っていたが、肉体にははっきりとその痕跡が認められた。

 吉明は、秘密にして欲しい、と懇願されるが、ふたたび“変化”した姿を坂下に目撃され、恵子は坂下の忠告に従い、彼を病院に預ける決意をする。

 だがやがて夫は舞い戻ってきた。憔悴しきった有様に、恵子は自らの選択を後悔するが、事態はそれで決着することはなかった……

[感想]

『大拳銃』は映画美学校の卒業制作として撮影されたもので、『へんげ』は映画祭などでの上映を意図して撮影されたそうだ。最終的な目標をどこに設定していたにせよ、基本的には一般の映画館での公開は想定されていなかっただろう。それが、各映画祭にて後者が熱狂的に支持された結果、同様に評価の高かった前者と併映する、という形で通常の長篇映画と同程度の尺に合わせ、正式な劇場公開が行われることとなった。

『へんげ』がそこまで高く評価されるに至ったのは――無論、端的には作品の魅力が認められた、と言って間違いはないのだが、日本映画界、それも製作される映画だけではなく、ロードショー公開される海外作品まで含めた映画興行全体に、長年まとわりつく閉塞感と関係している気がしてならない。

 率直に言えば、本篇の作りは何だかんだ言いつつも安っぽい。規模を思えば非常に丁寧な特撮を行っているが、それでもCGの技術が可能にした滑らかさ、リアリティと比較するとぎこちなさ、稚拙さが目につく。恐らく、許された予算の範囲ではこれが限界だったのだろう、と察しはつくが、映画を多く観ている、映画に詳しい人以外にそういう点にまで理解を求めるべきではないのだから、やはりマイナス点としていちおうは押さえておくべきだ。

 また、序盤こそホラー映画的な雰囲気で話を切り出し、随所に定番のモチーフを組み込みながらも次から次へと予想をひっくり返していく展開は牽引力に富んでいるが、一方で伏線や、作品全体の通底音とでも呼ぶべきものが明確には設定されていないので、全体の印象がかなりばらけてしまっている。頻繁に言われるラストの爽快感は確かにあるのだが、そのせいで序盤の、ホラー映画として堂に入った描写のインパクトを削いでしまっているのは気になるポイントだ。

 美点も多いが、同様に欠点も多い本篇がかくも称揚されたのは、尺や映像表現など、きちんと映画としての魅力を組み込んだ一方、ジャンル映画の枠に囚われない奔放なプロットと、挙句にもたらされる結末の凄まじいカタルシスが、日本の映画業界全体に蔓延る閉塞感をも打破するような力強さを感じさせる、という点が何よりも認められた結果である、と思う。

 本篇のように、一種奔放な組み立てをしたシナリオは、恐らくはじめから商業映画として成立させる意図で製作しても、どこかでブレーキがかけられることが考えられる。終盤で鍵を握る特撮にしても、下手に大きな予算を費やしてしまえば、本来持っている力強さが損なわれ、陳腐なものに成り下がってしまう可能性があったと思う――個人的には、同じ内容、ストーリーのもとに、膨大な予算を投入し、90分程度の長篇として仕立てても、“不出来なB級映画”という烙印を押されてしまう可能性はかなりあった、と考える。それは本篇をベースにリメイクしても同様で、「やっぱりビジネスが絡むと駄目だ」と揶揄される絵が、いまから容易に想像出来てしまう。

 だから、実のところ本篇は、映画業界の関係者や、小規模な自主映画も愛好する映画ファンの多くが感じている閉塞感に共鳴しつつ、与えられた規模のなかで充分な作品を撮り、それよりもひとまわり大きな魅力を備えた形で提示されたからこそ、一部で熱狂的に支持されたのではないか、と考える。予算なり製作背景なり、或いは発表される媒体なり、いずれかが異なっていただけで、状況は大きく違っていたと思う。

 無論、作品に一種独特の魅力があるのは間違いない――魅力、というより“色気”と表現するべきかも知れない。昨今珍しくなった種類の特撮技術を駆使して生み出されたクライマックスもさることながら、ホラー映画の文法に則った序盤の怪奇描写、中盤で登場する霊能力者の振る舞いや最後の扱い、このあたりのひねりには光るものがある。

 こと、本篇でいちばん注目すべきは、実質的な視点人物である妻の恵子である。通底音と呼ぶべきものが明確に設定されていない、と記したが、彼女の描写とその解釈は唯一それに相当しうる。いちばん最初の場面で窺わせる女性としての懊悩、“変化”を顕した夫を引き渡す前後の後悔や嘆き、そのあとの一見常軌を逸した振る舞い。ストーリーの奔放な変化に合わせて彼女も変化しているように思えるが、そこには単純明快な芯が通っており、作品の備える妖しい色気を引き立てている――惜しむらくは、それが夫・吉明の“変化”との共鳴が不充分であることで、そこが個人的には評価しつつも全面的に肯定しにくい所以だ。

 少々シニカルな見方を並べ立ててしまったが、本篇が往年の怪奇映画、ホラー映画に愛着のある観客、またこぢんまりとまとまって突出したところのない作品に飽きている、と漏らすような観客の鬱憤を吹き飛ばす爆発力を備えた、求められて現れた1本であることは確かだと思う――映画業界に限らず、閉塞感に悩んでいるような人は、きっと他では得られない類の爽快感を味わえるはずだ。

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