『ラ・ワン』

東京写真美術館ホール、開場前に掲示されたインド版ポスター。

原題:“Ra・One” / 監督:アヌバウ・シンハー / 脚本:アヌバウ・シンハーカニカー・ディッローン、ムシュターク・シェイク、デヴィッド・ペヌロ / 製作:ゴウリー・カーン / 撮影監督:ニコラ・ペコリーニ、V・マニカンダン / 美術:サーブ・シリル、マーカス・ウーキー / 編集:サンジャイ・シャルマー、マーティン・ウォルシュ / 録音:ラスル・プークッティー / 特殊効果:ジェフ・クライザー / 音楽:ヴィシャール=シェーカル / 楽曲提供:AKON / 出演:シャー・ルク・カーン、カリーナ・カプール、アルジュン・ラームパール、アルマーン・ヴァルマー、シャーハーナー・ゴースワーミー、トム・ウー、ダリーブ・ターヒル、サティーシュ・シャー、スレーシュ・メーナン、アミターブ・バッチャン、サンジャイ・ダット、プリヤンカー・チョーブラー、ラジニカーント / 配給:PARCO / 配給協力:Uplink

2011年インド作品 / 上映時間:2時間36分 / 日本語字幕:ニーラシ・ムニヤル、岡田理枝

2012年8月4日日本公開

公式サイト : http://www.uplink.co.jp/raone/

東京写真美術館ホールにて初見(2012/06/15) ※参加費1円試写会



[粗筋]

 イギリスにあるゲーム会社・バロン社に勤務するインド人シェカル(シャー・ルク・カーン)は目下、新作の開発に勤しんでいる。根が子供っぽい彼は、成長してませてきたひとり息子プラティク(アルマーン・ヴァルマー)から軽く見られていることに悩んだ挙句、新作ゲームに我が子のアイディアを組み込むことにした。

 そのアイディアとは、決して負けることのない敵役を登場させること。全身を駆使する格闘ゲームのラスボスとして、シェカルは何者にも屈しない最強の悪役――“ラ・ワン”を作りだした。

 悪役の名を冠したゲーム“Ra One”が無事に完成、シェカルは披露の場にプラティクも招き、その成果を体感させる。初めてのプレイヤーとなったプラティクはその出来映えを賞賛、ようやく我が子の尊敬を勝ち得たシェカルだったが、その背後で、予想外の事態が動き始める。

 バロン社ではゲーム以外に、デジタル世界でのデータを物質化する、驚くべき技術を開発していた。ゲームの中でプラティクと対戦した“ラ・ワン”は、中途半端なところで切り上げたプラティク――ハンドル名“ルシファー”打倒の闘志を滾らせ、それが新技術と呼応して、“ラ・ワン”は現実世界に飛びだしてきてしまったのだ。

 事態に気づいたシェカルはプラティクを助けるため、既に帰宅している妻ソニア(カリーナ・カプール)とプラティクを追って車を走らせるが、まさにその目前に“ラ・ワン”が姿を現す。我が子を救いたい一心で、“ラ・ワン”からの問いかけにシェカルは、自分がルシファーだ、と答え――次の瞬間、シェカルは殺された。

 夫を喪ったソニアは悲嘆に暮れ、故郷であるインドに帰ることを決意するが、プラティクは不可解すぎる父の死に疑問を抱き、“事故”の直前までいたはずの開発室を訪れる。そこでプラティクは、自分が狙われていることを知る。

 インドへの帰途に就こうとした母子を、“ラ・ワン”が急襲するが、しかしそのとき、忽然と現れたのは、ゲーム中のプレイヤーキャラであり、シェカルと同じ容姿を与えられたヒーロー“Gワン”であった――!

[感想]

 はっきり言ってしまえば、『ロボット』の2匹目のドジョウを狙った作品である――別に皮肉で言っているわけでも何でもなく、当初は『ロボット』の主役をオファーされながら断ってしまったシャー・ルク・カーンが主演、ハリウッドの技術を導入しSF娯楽大作として作りだされた、という本国での経緯からしてそう言わざるを得ないし、日本で公開されることが決まったのも『ロボット』が大ヒットを飛ばしたからに他ならない。

 だが、二番煎じだろうと何だろうと、観る側としては「愉しければいい」のである。『ロボット』で久々に、或いは初めてインド映画の面白さに触れ、目醒めた観客としては、別の作品でもこの感覚を味わいたい、と思うのは当然のことだろう。そういうところへ、同じラインを踏襲した本篇が持ち込まれるのは必然的だし、生々しい話をすれば商売的にも正しい。ふたたびインド映画のムーブメントが日本で活発化させるためには、とりあえず足掛かりとなった作品に繋がるものをリリースするのは理解出来る展開で、これを責めるのはいささか酷だ。

 従って――というか、こんな経緯があろうとなかろうとそうするのが当然なのだが――あくまで内容自体で論じたい……のだが、率直に言えば、『ロボット』のことを抜きにしても、あまりに“大作映画”のイメージに囚われすぎて、ストーリー的には微妙な印象を受ける。

 製作のきっかけは『ロボット』であったとしても、本篇のモチーフは少し異なっている。どちらかと言えば、『ターミネーター2』に近い。序盤こそオタク風味の家族ドラマだが、シェカルが不慮の死を遂げ、入れ替わりに“Gワン”が登場すると、その骨子はもろに『ターミネーター2』的だ。この点を意識して鑑賞すると、たぶん随所で頷ける点があるはずである。

 先行作品を意識すること自体は決して悪くない。だが本篇は、強く意識し、模倣というよりはオマージュではあるとはいえ、安易になぞっているうちに、SF設定にかなり難を生じてしまった感がある。

 デジタルが具現化する、という設定であり、作中ではあくまでもヒーロー扱いであるはずの“Gワン”が身動きするたびにいちいち謎の駆動音が響くのは、『ロボット』や『ターミネーター』を意識してのことだろうが、出だしを理解しているとどうも不自然に映る。他方、ゲーム世界から飛びだして、プラティクを救うために活躍する――という流れは解るし、それ故にクライマックスではプラティクが“Gワン”を操作して戦う、というシチュエーションがあるが、では何故、初登場のときに“Gワン”は自発的に戦ったのか。よくよく考察してみると、製作者側には“Gワン”が自ら動く部分と、操作されないといけない部分に線引きがしてあるようにも思えるのだが、SFである以上、そのあたりをもっと自覚的に描かねば、クライマックスに不自然な印象を残してしまう。

 そもそも、土台となっているゲームの作りがあまりに非現実的すぎる、という問題もある。プレイヤーの全身の動きをトレースする格闘ゲーム、と聞くと、なかなかエキサイティングなようだが、実際に遊ぶためには負担が大きく、またプレイヤーの身体能力を過剰に要求してしまうため、現実にはかなり確実に採用はされない。もっと問題なのは、ラスボスであり、本篇のタイトル・ロールでもある“ラ・ワン”だ。プラティクの「絶対に負けない悪役」というアイディアを反映した、というが、よく考えて欲しい。ゲームは、あまりに簡単すぎても飽きられるが、過剰に難しくても好まれない。まして、いくらプレイヤーが努力しても勝てないような悪役は、そもそもゲームの“勝ったときのカタルシス”が決して得られないわけで、どう考えても導入する意味がない。難易度を程良く高める、倒すために何らかの工夫が要る、というアイディアならまだしも、「絶対に負けない」というのは発想として幼稚すぎ、どれほどシェカルが子供っぽい人物であったとしても、その通りに導入することはないだろうし、たぶん他のスタッフが止める。

 その辺は、作品の発想の根源にかかわるから、と甘く見ても、格闘ゲームにもかかわらず、誰にでも変身出来る、という必然性のない設定が付与されていることや、ラストの戦いでのアイディアも含め、“ラ・ワン”の設定にはかなり無理がある。シェカルの死後、誰も開発室を訪れなかったことや、“Gワン”との共同生活、その変化などにもいまひとつ筋が通っていない。一見インパクト重視で細かいところを気にしていないように見えて、実はSFとしての考証がかなり行き届いていた『ロボット』と比べるとどうしても見劣りがしてしまうのは、こういうところに因る。

 ただ、後発である分、『ロボット』よりも魅力的な部分もある。

 まず、『ロボット』では無理矢理ねじ込んだ感の強いダンス・シーンが、本篇においてはシナリオにごく自然に馴染んでいる点だ。特に中盤、レディー・ガガのプロデュースを手懸けるAKONが提供したという楽曲に合わせて踊る場面は、ダンスそのものはけっこう無茶だが、そこでの行動が次のシーンに綺麗に結びついて、思わず唸らされる。こう言っては何だが、ヴィジュアル的には“おじさん”で、動作も決して機敏ではない『ロボット』のラジニカーントと比べると、本邦のV6・岡田准一を思わせる整った顔立ちに鍛え上げられた肉体、そしてスピーディな動きで魅せるシャー・ルク・カーンのダンスは、『ロボット』とは異なる見応えがある。

 加えて、アクションシーンの迫力は、荒唐無稽極まりなかった『ロボット』に比べ、やや地に足の着いた、重量感を備えていて、これもまた違った魅力が横溢している。“Gワン”初登場時の壮絶な戦いもさることながら、特筆すべきは列車でのシークエンスだ。『ロボット』を意識しているのは間違いないだろうが、独自の見せ方と緊迫感を演出しているこのくだりは、個人的には『ロボット』よりも興奮した。ハリウッドを含め、世界的に見ても優れたアクション・シーンと言っていいのではないか。

 SF設定の裏打ちが乏しく、充分な伏線を張っていないために説得力に欠いているが、きちんとドラマ的な盛り上がりを考慮していることは評価したい。ちょっと口うるさい類の人間だとあまり入り込めないかも知れないが、親子関係の機微を描いたくだりには、ほろりとする人も少なくないはずだ。

『ロボット』同様、インド映画の過剰さを感じさせるヴォリュームは、慣れていない人だと観終わってくたびれそうなほどである。ただ、プロット的にも精度の高かった『ロボット』と比べ、悪い意味での大らかさが露呈している本篇は、『ロボット』に惹かれて劇場に運んだ観客を確実に満足させられると、とは言い難い。かねてからインド映画に親しんでいた人や、たとえば80年代の香港映画のような大らかさ、大雑把さに馴染んでいるような人なら楽しめるかも知れないが、『ロボット』のような波及力には乏しい、と思う――この豪華絢爛さは大スクリーンでこそ楽しめるはずで、合う合わないはさておき、気になるなら劇場公開中に足を運ぶことをお薦めするが。

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