『路上のソリスト』

『路上のソリスト』

原題:“The Soloist” / 原作:スティーヴ・ロペス(祥伝社・刊) / 監督:ジョー・ライト / 脚本:スザンナ・グラント / 製作:ゲイリー・フォスター、ラス・クラスノフ / 製作総指揮:ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、ジェフ・スコール、パトリシア・ウィッチャー / 撮影監督:シーマス・マクガーヴェイ,B.S.C.,A.S.C. / 美術:サラ・グリーンウッド / 編集:ポール・トシル,A.S.E. / 衣装:ジャクリーン・デュラン / 音楽:ダリオ・マリアネッリ / 出演:ジェイミー・フォックスロバート・ダウニー・Jr.、キャサリン・キーナートム・ホランダー、リサ・ゲイ・ハミルトン、ネルサン・エリス / 配給:東宝東和

2009年アメリカ作品 / 上映時間:1時間57分 / 日本語字幕:関美冬

2009年5月30日日本公開

公式サイト : http://rojyo-soloist.jp/

TOHOシネマズシャンテにて初見(2009/06/02)



[粗筋]

 LAタイムズのコラムニスト、スティーヴ・ロペス(ロバート・ダウニー・Jr.)は最近腐り気味だった。同僚であるメアリー・ウエストン(キャサリン・キーナー)との結婚が破綻して以来、仕事への情熱をじわじわと失い、今ではすっかり生活の手段に成り果てている。通勤途中、自転車で盛大に転倒し、意識を失って救急車で運ばれるような事態に陥っても、救急治療室の他の怪我人よりずっと軽傷であることを喜び、それをネタにする己を内心嘆いていた。

 まだ顔に醜い傷を残したままのスティーヴがロサンゼルス公園でぼんやりとしていたとき、何処からともなく聴こえてきた優しい音色に誘われ、彼は腰を上げる。ベートーヴェンの彫像の下で、2弦しかないヴァイオリンから美しい音色を奏でる、黒人のホームレスがいた。

 ジャーナリストとしての好奇心をそそられたスティーヴは、やけに多弁で要領を得ない相手の喋り方に難渋しながら、素性を聞き出す。この黒人ヴァイオリニストの名前はナサニエル・エアーズ(ジェイミー・フォックス)、話によればジュリアード音楽院に在学していた経歴の持ち主で、本来はチェロを弾いていた、ということだった。

 ジュリアード音楽院といえば音楽教育の名門校、そこの出身者が何故現在、ロスで路上生活をしているのか? 疑問を抱いたスティーヴはまず、ジュリアード音楽院の教務課に問い合わせを試みる。電話を受けた人物は当初、卒業生にナサニエル・エアーズという名前はない、という返事だったが、のちに入学者のなかに発見した、とわざわざ連絡を寄越した。入学したものの、二年で退学した、ということらしい。

 ナサニエルの人生に、ジャーナリストとしての関心を強く惹かれたスティーヴは、本格的なリサーチを開始した。初めて出逢ったベートーヴェンの彫像の傍からは姿を消していたが、LAタイムズの社屋からほど近い地下道で再会を果たすと、本人に記事にする旨を伝え、取材を試みる。相変わらず要領を得ない言動ばかり繰り返すナサニエルに往生しながらも、どうにか聞き出した彼の生い立ちを手掛かりに、スティーヴは路上の音楽家の幼少時代を調べ始めた。

 ナサニエルを女手1つで育て上げた母は既に他界しており、存命の身内は姉ジェニファー(リサ・ゲイ・ハミルトン)しかいない。電話で連絡を取ると、ジェニファーは行方をくらましていた弟の生存と凋落とを知り、喜びと嘆きのない混ざった吐息をこぼした。

 幼少時代、ナサニエルのチェロを指導した音楽教師は、「彼なら世界を手に出来ると直感した」と断言する。裕福ではないが才能に恵まれていたナサニエルには、確かに未来が開けていたのだ。彼が、ある病の兆候を見せるまでは……

[感想]

 本篇は、作中でロバート・ダウニー・Jr.が演じている実在のコラムニスト、スティーヴ・ロペスがLAタイムズで連載し、のちに1冊の本にまとめた、路上の音楽家ナサニエル・エアーズとの交流を綴ったコラムに基づいている。

 だからこそだろう、本篇のストーリー展開には、“弱者の救済”という美談を採り上げたフィクションにありがちの押しつけがましさや、御都合主義な成り行きが皆無に等しい。むしろ、語り手として物語を綴るスティーヴ・ロペスは、自らの行為に“善意の押しつけ”があることを微かに感じ、悩んでいる節さえある。

 しかし序盤は、あくまでも取材対象として割り切った感じでナサニエルと、その関係者に接触している。そんなスティーヴの立ち位置が乱れてくるのは、コラムが好評を博し、感動した読者から「もっとマシな楽器を」と使わなくなったチェロを贈られたあたりからだ。読者の厚意に応える必要と、胸のうちにあった“ナサニエルを救いたい”という微かな想い、それに彼の境遇に対する配慮もあって、予想外にナサニエルの人生と、彼を取り巻く環境とに踏み込んでいくことになる。ロスで働きながら関わり合うことのなかった、路上生活者の多く集まるスキッド・ロウ地区にスティーヴは入り込み、その内実までも知っていくのだ。必ずしも望んでいたわけではない、100%の善意からではない、という線引きが透けて見えるこの流れは、純然たるフィクションではなかなか描けない迫真の雰囲気を醸しだしている。

 同じことはスティーヴの取材対象であったナサニエル・エアーズにも言える。その後の話により、正式な診断はなかなか下されないが、どうやら彼が統合失調症を患い、そのために居場所を失ったと考えられるようになる。しかし、何故彼が統合失調症になったのか、その原因については何ら具体的なものを仄めかしていない。作中の描写から、もともとナサニエルには僅かながら自閉症の傾向があり、故郷からジュリアード音楽院に移って起きた生活の変化、学業でのプレッシャーや失望などがそれに重なった結果、幻聴を引き起こしたのではないか、といった憶測も出来るが、いずれにせよ原因はこの作品にとって重要ではないし、そういう描き方が従来のこの症例の扱い方と一線を画している。

 ナサニエルの病を察したあとのスティーヴの反応、周囲の行動もまた独特で、かつ非常に現実的だ。当初、スティーヴは診察を受けさせるように、路上生活者のコミュニティの職員に進言するが、相手は否定的な見解を示す。このコミュニティには多くの病人がいるが、診断は受けても誰ひとりとして適切な治療を受けていない。ならば診断に何の必要がある? というのである。と同時に、統合失調症の治療にはまず当人が病を認め、受け入れる必要がある。ナサニエルのように折り合いをつけたうえで路上生活を選択したような人間は、医師の前に座らせること自体が難しく、そのために事態を悪化させる怖れすらあるのだ。こういう、考えてみればもっともな現実を、本篇はきちんと織りこんでいる。実話であることを差し引いても、この姿勢はとても誠実だ。

 この真摯な態度は結末まできっちりと守られている。スティーヴはナサニエルの感性と一途な芸術への想いに感銘を受け、彼の境遇をどうにか“改善”したいと本気で考えはじめるが、ナサニエルは彼の希望する世界、彼の生活を良くしてくれる環境を提供しても、必ずしも喜ばない。傍目には我が儘とさえ映る物言いにスティーヴは時として苛立ちさえ示す。そういうスティーヴの反応もまた実感的だ。

 不幸な境遇を巡る物語は、フィクションならば華々しくもわざとらしいハッピーエンドに辿り着くことが頻繁だが、本篇はそこも妥協していない。個人では対処しきれない限界をちゃんと自覚したうえで、それでも彼らにしかできない結論を示す。微かな無力感を滲ませながらも、あるべき場所に行き着いた感の強い締め括りは、とても穏やかな暖かさに満ちている。

 監督のジョー・ライトはイギリス出身であり、前2作はいずれもイギリスを舞台にしているため、資本的にも舞台的にも本篇は彼のハリウッド進出作となっている。プログラムによると、同じ英語圏でもその撮影スタイルや社会性の違いによる衝撃は受けたようだが、基本的な作風にブレは生じていない。

つぐない』は物語にかなり猥褻な部分を孕んでいるのに、それを巧みに気品で押し包んでみせたが、本篇では猥雑で危険と隣り合わせの路上生活者たちの様子を、決して扇情的にショッキングに描くことなく、穏やかに捉えている。この監督だからこそこの物語は、主題が秘める優しさ、暖かさをより明瞭に浮き上がらせているのだろう。

Ray/レイ』でオスカーに輝いたジェイミー・フォックスは病んでいるが故の異様な雰囲気と人としての優しさ、生真面目さをきっちり見せた演技で久々に精彩を示し、最近脂の乗っている印象のあるロバート・ダウニー・Jr.は自然体に近い表情でそれを巧みに受け止める。主演ふたりの好演が、彼らの心の交流を柔らかに、濃密に表現している。

 物語の質も演技の質も高いが、個人的に注目して欲しいのは、音の使い方、音の表現の巧みさである。スティーヴが読者から託されたチェロをナサニエルに手渡し、初めてその演奏を生で聴くくだりや、彼らの評判を知ったディズニー・ホールのオーケストラから招待を受け、ふたりでリハーサルを見学するあたりの表現は実験的でユニーク、しかし見事なまでの効果を上げている。『つぐない』でも、タイプライターの音をリズムとして用いて全体に芯を通すという技を駆使した監督だが、本篇でも音へのこだわりで抜きん出た才覚を示している。

 前作『つぐない』ほどの重厚さはないが、シンプルながら安易ではない話作りに、表現に趣向を凝らしながらも決して押しつけがましくなく、しみじみとした余韻が残る、実によく練り上げられた映画である。感動させよう、などという乱暴な意識も気負いもないのが特にいい。

関連作品:

つぐない

Ray/レイ

トロピック・サンダー/史上最低の作戦

マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと

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