原題:“Unser Tragrich Brot” / 監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター / 脚本:ニコラウス・ゲイハルター、ウォルフガング・ヴィダーホーファー / 製作:ニコラウス・ゲイハルター、マルクス・グラサー、ミヒャエル・キッツバーガー、ウォルフガング・ヴィダーホーファー / グラフィック・デザイナー:ファビアン・ゲイハルター / 編集:ウォルフガング・ヴィダーホーファー / 配給:espace-sarou
2005年ドイツ・オーストリア合作 / 上映時間:1時間32分 / PG-12
2007年11月10日日本公開
2008年11月29日DVD日本盤発売 [bk1/amazon]
公式サイト : http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/
DVDにて初見(2009/11/22)
[概要]
私たちが日々、大量に、安価に消費している食糧は、どのように生産され、私たちのもとへと供給されるのだろうか?
このシンプルな疑問を、監督のニコラウス・ゲイハルターはシンプルな方法で追った。生産の現場にカメラを入れ、撮影するのである。彼らの日常的な“作業”がどのような意味を持つのか、詳しくは説明しない。ひたすらありのままを、時として美しく、極めて残酷に捉え、私たちの前に示す。
この光景に、あなたは何を思うだろうか……?
[感想]
上記の通り、本篇には“説明”が一切ない。テロップもナレーションもなく、更に登場する人々が簡単にでも自分の行動を説明する場面さえないので、観客は自分の知識を総動員して、その意味を解釈するしかない。どうしようもなく不親切な作り、とも言えるが、しかし無関心でいては本質を理解することは出来ない、というあたりは、食糧の大量生産という営みの現実をうまく反映している。
実のところ、私も観ていて一部、何を生産している現場なのか解らないシーンがあったし、生産しているものは解っても意味を把握しかねる行動も無数にあった。私自身の無知のせいもあるだろうが、恐らくは国の違いもあるだろう。日本で大量に消費されているものが、同じように本篇の撮影されたドイツやオーストリアで消費されているわけではなく、そのあたりは踏まえた上で鑑賞する必要もあるだろう。
ただ、野菜や穀物の素性は解らなくとも、豚や牛、鶏や魚は一目で解る。大量生産の現場におけるこれらの扱いは、たとえ予想していたとしても衝撃を禁じ得ない。ヒヨコがベルトコンベアに乗せられて仕分けられる姿や、雌に近づけて興奮した牡から精液を採取して、隣にある部屋で人工授精をしている、という奇妙な対比。こと豚に至っては、出産から肉となって出荷されるまでの過程をほぼ余すところなく押さえている。完全に自動化された豚の捌き方と魚のそれとが似通っている様には、一種ブラック・ユーモアのようなものさえ感じてしまう。
見誤ってはいけないのは、この作品はそうした尊厳を無視した生命の扱いに物申そうとしているわけではない、少なくともそういう意図で製作されているわけではない、ということだ。無論、いくら安定した食糧供給のためでもこんな扱いは間違っている、と感じて行動に移すのは各個人の自由だが、それが製作者のメッセージではないことは弁えておくべきだろう。こうして1篇の映画としてまとめながら、そこに説明を施していないのが何よりの証左である。
本篇は、少し穿ったものの見方をする人ならいちどは考えるはずの、食料を大量生産する現場の実態をきちんと撮影し、極力主観を交えずにまとめあげたことにこそ価値がある。一定の美意識に従って構図を考えてあるし、構成にもちょっとした工夫が凝らされているが、決して観客の思考を誘導したり、考察の妨げになるようなものではない。監督と同様の疑問を抱いた人、作品のテーマを知って関心を抱いた人に、考える材料を与える、という目的に徹しているのだ。
嫌味ではなく、食料を収穫すること、“いのちを食べる”とはどういうことなのか、を考える上での格好の教科書となり得る作品である。如何せん、鶏や豚が屠殺され捌かれていくところをあまりにも淡々と並べているので、人によってはしばらく食事が出来ないほどのトラウマを抱えてしまう危険もあり得るだけに、誰にでもお薦めしていい作品でないのは確かだが、監督と同じような疑問を抱いていた人、この感想を読んで「観てみたい」と感じた人は、是非ともいちど挑んでいただきたい。機会が得られるのなら、実態を知るべきだ。
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