めがねっ娘地獄変

 実家暮らしを続ける限り彼女は出来ない、という結論に至り、遂に若林はアパートを借りる意を固めた。生活の余裕を保てる範囲で居を固めよう、となれば、多少の怪しさには目を瞑るしかない。

 お約束ではあるが、そこは非常識なくらい賃料の安い部屋だった。案内には、築三十年以上、とボカした書き方をしていたが、実際にはそれでは利かないくらい年季が入っている。しかし、ボロいながらもバストイレは完備しており、何事もなければ充分にお得な物件と言えた。

 世の中そんなに甘くない、と若林が悟らされたのは、入居したその晩のことだった。

 若林は寝床として低いパイプベッドを用意していた。下のスペースに衣服のケースを押し込んで有効利用する腹でいたが、その日は引っ越しの疲れでパイプベッドを組むのが精一杯で、マットレスの下の空間はまだ何もない。

 そこを、小さいものが這いまわる音が聞こえてきた。

 最初はネズミの類かと思い顔をしかめたが、すぐに違うと気づく。ネズミなら四肢が畳表を踏みしめる音が直線的に動くはずだが、この異音は、平べったい何かが弧を描いているようだった。

 覗きこもうと、半身を浮かせ、顔を傾けたところで、ベッドのふちから何者かの頭がチラついているのが見えた。音が移動するのに合わせて、頭も右へ、左へと動く。

 夜中に、見知らぬ誰かが、ベッドの下にある何かを探している。

 恐怖とともに若林は、この不審人物が何を探しているのか、に興味を惹かれた。気づかれないよう、そっと半身を起こす。

 シルエットが見えた。暗がりで細かな造作は解らないが、華奢で小柄な体格の、女の子らしい。顎のあたりの影が微かに動き、何かを呟いているのが解った。若林は耳を澄ませる。

「……ね、……がね、めがね……私の、めがね〜……」

「眼鏡?」

 思わず反復してしまった。女の子が、はっ、と息を呑んで顔を上げる。丸く見開いた眼と見つめあった、かと思った次の瞬間、女の子の姿はさながら霧が風になぎ払われるように、ふっ、と掻き消えていた。

 これもお約束ではあるが、若林は翌朝、部屋中を探った。まだ荷物のほとんどは段ボールに詰めたままで、眼鏡が潜り込んで探せなくなるほどではなかったはずだが、一向に見つからない。まさか幽霊のために休む、などという真似ができるはずもなく、いちど仕事に出かけ、終業のあとにもう一度探索を試みたが、結局レンズの破片もフレームも、眼鏡に関係するものは何一つ発見できなかった。

 思案の末、その晩はベッドを使わないことにした。買い込んできたビールを何杯も呷り、感覚を麻痺させて、その瞬間を待った。

 張り詰めた神経が緩み、酔いがもたらす睡魔が若林を屈服しようとしたそのとき、いつの間にか現れていたことに気づいた。

「……がね、めがね……たしの、めがねぇ〜……」

 ベッドの上から眺めて感じたよりも、ずっと小さく、いとけない後ろ姿が闇に蠢いている。華奢な背中を丸めて、腕を拡げ畳の上に両手を滑らせていた。さりさり、さりさり、と、掌がいぐさの上を這う音とともに、執拗にめがね、めがね、と儚く繰り返す声が、暗く静まりかえった部屋に響く。

 怖い、というよりは、哀感をもよおす光景だった。いったい、いつから彼女はこんなふうに失せ物を探し続けているのか。どうすればその虚ろな反復を止めることができるのか。だからこそ若林は、代わりに見つけて、未練をなくしてあげようと試みた。しかし恐らく、彼女がここに遺したものは既に処分されたあとだったのだろう。若林に打てる手はもう見当たらなかった。

 灯りを落とした室内にいつまでも微かに鳴り響く、畳をこする音と沈痛な呟き。未だほんの僅かに抱く怖れに、勝るほどの憐れみが若林の胸を満たしていた。

 この世でないものに呼びかけるのは、きっと正しい行為ではない。そう感じていても、若林は衝動を抑えることが出来なかった。身を乗り出し、静かに、だがはっきりした声で告げる。

「君の探しているものは、ここにはないよ」

 背中の小さな揺れが止まった。前かがみになっていた半身がゆっくりと起き上がる。のろのろとした仕草で、若林を振り返った。

 この前は位置の関係で不明瞭だった表情が、今夜ははっきりと見える。僅かな光を反射して煌めくレンズの向こうで、大きな瞳が若林を見つめていた。

 ……………………レンズ?

「……か」言わない方が、この場は逃れられそうな気がする。だが、ツッコまずにはいられなかった。「かけてんじゃん」

 静寂にやたらと甲高く響いた若林の声に、少女はきょとんと目を見開く。やけにゆっくりとした仕草で両手を頬の横に掲げると、やがて指先が弦に触れ、浮いたノーズパッドが、かちん、と小さく鳴った。はっ、と息を呑み、暗がりにも解るほど、頬が赤らむ。

 次の瞬間、眼鏡の少女の姿はまたしても忽然と消えていた。超常の力で姿を隠した、というより、恥じ入って小さくなったように見えた、と若林は言う。

 ほんとうに失くしたものがあるなら、返してあげることで未練も晴れるだろう。だが、実際には失くしていなかったものに執着するものを解放するのは容易ではない……と考えるしか、怪談的には解釈のしようがなかった。

 少女の幽霊は未だにめがねを探している。

 若林も未だにそこに住んでいる。

 彼女が出来た気配は、ない。

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