原題:“Il Ferroviere” / 監督:ピエトロ・ジェルミ / 脚本:ピエトロ・ジェルミ、アルフレード・ジャンネッティ、ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ / 製作:カルロ・ポンティ / 撮影監督:レオニーダ・バルボーニ / 美術:カルロ・エジディ / 編集:ドロレス・タンブリーニ / 衣裳:ミレーラ・モレリ / 音楽:カルロ・ルスティケリ / 出演:ピエトロ・ジェルミ、エドアルド・ネヴォラ、ルイザ・デラ・ノーチェ、シルヴァ・コシナ、サロ・ウルツィ、カルロ・ジュフレ、レナート・スペツィアリ / 配給:イタリフィルム / 映像ソフト発売元:エスピーオー
1956年イタリア作品 / 上映時間:1時間55分 / 日本語字幕:?
1958年10月18日日本公開
2009年11月6日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]
第1回午前十時の映画祭(2010/02/06〜2011/01/21開催)上映作品
第2回午前十時の映画祭(2011/02/05〜2012/01/20開催)《Series1 赤の50本》上映作品
TOHOシネマズみゆき座にて初見(2011/12/24)
[粗筋]
その年のクリスマスは、祝福される日になるはずだった。鉄道の機関士であるアンドレア・マルコッチ(ピエトロ・ジェルミ)の娘ジュリア(シルヴァ・コシナ)が初めての出産を間近に控え、夫のレナート(カルロ・ジュフレ)とともにマルコッチ家で一緒に食事をする予定になっていた。
幼い末子のサンドリーノ(エドアルド・ネヴォラ)は喜び、業務明けのアンドレアを迎えに駅まで赴くが、その帰り、アンドレアは悪い虫を起こし、同僚のジジ・リヴェラーニ(サロ・ウルツィ)に誘われるまま、行きつけのウーゴの店に寄り道してしまう。1杯だけのはずが2杯になり、気づけば得意のギターを抱えての合唱になり……もういちど迎えに来たサンドリーノがようやく家に連れ帰ったとき、他の家族の姿はなかった。出迎えがないことに腹を立てたアンドレアは不貞寝して書き置きに気づかず、ひとりでレナートの家に向かったサンドリーノは、ジュリアの赤子が死んで産まれてきたことを知る。
このことがきっかけで、マルコッチ家の人々が長いこと目を逸らしてきた歪みが、一気に大きくなってしまう。もともと仲がぎこちなくなっていたときにジュリアの妊娠が発覚、事情を知ったアンドレアが半ば脅すようにして結びつけた夫婦は、死産のために溝を深めていた。表向きはいつも通り振る舞っていたが、レナートはアンドレアの妻サーラ(ルイザ・デラ・ノーチェ)に、離婚を考えていることを打ち明ける。
普段は一家の大黒柱として横柄に振る舞っていたアンドレアも、立て続けの不幸に幾分荒れていた。そんな矢先、彼の運転する急行に、飛び込み自殺を図る若者が立ち塞がる。急ブレーキをかけるも間に合わず、列車は若者を轢き殺した。それでも気丈に乗務を続けようとしたアンドレアだったが、赤信号に気づかず、危うく衝突事故を起こしそうになった。
気付けのつもりで酒を含んだところを目撃されていたために、飲酒運転が原因の不注意と判断され、アンドレアは急行の機関士から、住宅街を巡回する旧式の機関車の運転士に格下げ、給与も大幅に削減されてしまう……
[感想]
この作品、『素晴らしき哉、人生!』と比較してみると興味深い。
どちらも、基本的にはクリスマス・ストーリーだ。中心にあるのは、ひとりの男の人生である。長い紆余曲折の果てに訪れるクライマックスの絵面も、どこか近しい。
だが、基本的にファンタジーに根ざしている『素晴らしき哉、人生!』に対し、本篇には空想的な要素、超現実的な要素は一切含まれていない。そして、実は緻密な伏線に支えられているあちらに対して、本篇の構造は決して伏線に頼っていない。
最も顕著な差違は、あくまで主人公ひとりに視点を統一していたあちらに対し、本篇は家族それぞれが目にした出来事を点綴する形で描いている。個人の視点から人生を浮き彫りにしていくのではなく、様々な証言、周辺の状況から積み上げる、という印象だ。
それらの出来事はひとつひとつ、密接に絡みあっているわけではない。最初のくだり、一見したところ、娘の結婚が不本意で家に帰るのを遅らせた、というふうにも読み解けるが、しかし実際には主人公たるアンドレアは平素から酒を呑みすぎて家のことを疎かにする傾向があり、恐らく当人に他意はなかっただろう。そこから娘の死産に対する罪悪感が生じているが、この出来事自体がのちに起きるジュリアの離婚騒動に直結していくわけではない。もとを辿っていくと緩やかな繋がりがあり、それがアンドレアの人物像を形作っていくが、物語として確固たる軸になっていくわけではない。
だから、本篇の終幕には少々唐突である、という印象を受ける人もいるはずだ。前述したとおり、どこか『素晴らしき哉、人生!』に似たテイストのクライマックスだが、しかしそこに至る布石が予め整っているわけではない。どちらかというと、自然発生的に辿り着いたような感さえある。
だが、そうした繋がりの緩やかさが、却ってこの終幕の暖かさ、優しさを引き立てている。そもそも主人公の人物像が『素晴らしき哉、人生!』とかなり異なっているために、安易に伏線を仕込めなかった事情もあるが、本篇のアンドレアのような人柄で同じ道筋を辿ることはまずあり得なかっただろう。それでもああいう展開になったのは、こうした成り行きになる以前の人物描写、人間関係があってこそで、本篇はそこを決して疎かにしていない。
そして、こうした人間関係の描写を含め、本篇に誰よりも貢献しているのが、サンドリーノという少年だ。
それぞれ別々に繰り広げられる出来事の目撃者として頻繁に登場し、幼いなりの感覚で結びつけて語るこの少年の存在が、あの終幕に至る道筋を観客に解りやすく提示している。特に中盤、家族のあいだで起こる諍いが、考えようによっては不可避なものであったことを実感させるのは、彼が重要なポイントを断片的に目撃してくれているからだ。
加えてこの少年、こういう家族の“修羅場”にあって、しばしば利発な物云いや反応を示すかと思えば、実に子供っぽい素直さ、単純さで周囲を振り回したり掻き回したりもする。もし大人がこういう役回りを演じていたならそうとう不愉快になるところだろうが、子供のまさに“無邪気”さが、本篇においては笑いとして機能し、救いにも繋がっている。家で顔を合わせることが減った父親の関心を取り戻すために、勉強を頑張って成績を上げてみたり、秘密だと言われていることを「秘密って言われたけど」と言いながらぽろりと漏らしてしまう。
そして、サンドリーノという少年を通して、物語の、ひいては登場人物たちの“優しさ”がひしひしと伝わってくる。だから、どこか絵空事じみたクライマックスが真実味を帯びるのであり、じんわりと胸に迫ってくるのだ。
こうして拾ってみると、物語を組み立てる手管は『素晴らしき哉、人生!』とまるで違っているのが解る。だが、結果として辿り着く余韻が何処か似通っているのが不思議だ。そしてどちらも観終わって、人に優しくしたい気分にさせてしまう。
結末の出来事が対照的で、本篇にはほろ苦さが混じるが、しかしそれ故に、『素晴らしき哉、人生!』の突き抜けた清々しさがやや肌に合わない、という人には本篇のほうをお薦めしたい。
関連作品:
『道』
『汚れなき悪戯』
『禁じられた遊び』
『アンストッパブル』
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