原題:“Back to the Future Part III” / 監督:ロバート・ゼメキス / 原案:ロバート・ゼメキス&ボブ・ゲイル / 脚本:ボブ・ゲイル / 製作:ボブ・ゲイル、ニール・キャントン / 製作総指揮:スティーヴン・スピルバーグ、キャスリーン・ケネディ、フランク・マーシャル / 撮影監督:ディーン・カンディ / 特撮:ILM / プロダクション・デザイナー:リック・カーター / 衣裳:ジョアンナ・ジョンストン / 編集:ハリー・ケラマイダス、アーサー・シュミット / キャスティング:ヴァロニー・マサラス、マイク・フェントン、ジュディ・テイラー / 音楽:アラン・シルヴェストリ / 出演:マイケル・J・フォックス、クリストファー・ロイド、メアリー・スティーンバージェン、リー・トンプソン、トーマス・F・ウィルソン、エリザベス・シュー、ジェームズ・トルカン、マット・クラーク、リチャード・A・ダイサート、パット・バトラム、ハリー・ケリーJr.、ダブ・テイラー、ヒュー・ギリン、ショーン・グレゴリー・サリヴァン、ウェンディ・ジョー・スパーバー / 配給:ユニヴァーサル×UIP Japan / 映像ソフト発売元:GENEON UNIVERSAL ENTERTAINMENT
1990年アメリカ作品 / 上映時間:1時間59分 / 日本語字幕:?
1990年7月6日日本公開
2012年11月2日映像ソフト日本盤発売 [DVD Video:amazon|Blu-ray Disc:amazon]
TOHOシネマズ西新井にて初見(2013/09/24) ※バック・トゥ・ザ・シアターVol.4
[粗筋]
1985年に高校生として青春を謳歌していたはずの少年マーティ・マクフライ(マイケル・J・フォックス)は、変わり者の科学者エメット・ブラウン博士(クリストファー・ロイド)、通称ドクの開発したタイムマシン=デロリアンによって時を行き来し、紆余曲折あって、1955年の世界に取り残されてしまった。しかし、マシントラブルによりそれよりも更に過去、1885年に遡ってしまったドクからの手紙により、過去から封印されてきたデロリアンを“発掘”、修理も出来るようになる。
だがその代わりに、衝撃的な事実が判明する。西部開拓時代に飛ばされたドクは、もはや現代には戻らないものと心に定めて手紙を残したが、デロリアンが封印されていた場所の目と鼻の先にある墓地に、他ならぬドクの名を刻んだ墓碑が建っていたのだ。日付は、手紙を記したわずか1週間後。
記録を調べたところ、どうやらドクを殺害したのはバフォード・タネン(トーマス・F・ウィルソン)という男らしい。たった80ドルにまつわる諍いで、背中から撃たれたというのだ。マーティは決心する――自分本来の時代に戻る前に、1885年に赴いて、ドクを救う、と。
1955年のドクの協力により、無事に1885年に辿り着いたマーティだったが、困ったことに、到着時のトラブルによりデロリアンのガソリンが漏出してしまった。どうにかドクと再会を果たしたマーティだが、未だガソリンが出回っていないこの時代に、タイム・トラベルに必要な時速140kmをどうやって稼げばいいのか。そしてもっと肝心な、ドクが殺される未来を回避する、という目的は、無事に果たせるのか……?
[感想]
第1作はリアルタイムで、映画館にて鑑賞したが、その思い入れの強さ故に、完結している作品を続ける意味が理解できずに2作目、3作目を避けて成長し、ジャンル問わず多くの映画を観るようになってようやく続篇に接する気になった。だから私にとって、実に28年も費やして辿り着いた完結篇なのである――第2作で描かれた近未来に極めて近い時期にやっと鑑賞した、ということもオツだが、時間を費やしているだけに、まずそれだけで非常に感慨深い。
そして、そこまでして避け続けてきた作品だが、いざ観てみると、充分に面白い。
そもそも単体でパーフェクトな存在感を誇る第1作と比較すれば、落ちて見えるのは仕方のないことだ。しかしこの第2作、第3作は、第1作で提示した世界観をはみ出すことなく、丁寧に話を拡げ膨らませ、そのなかで極限まで美しくまとめ上げている。むしろ、あれだけ支持された第1作が先にあるなかで、ここまで高めたこと自体にまず舌を巻く。
特にこの第3作については、第2作がタイム・トラベルという趣向を突き詰め、どんどん複雑化することで成立していたのを反省するかのように、舞台を開拓時代の西部に限定したうえで物語をシンプルにし、より明快な娯楽活劇にしているのが巧い。前作が込み入っているだけに、なおさら物語に入り込みやすい。前作で説明したことや、似たようなシチュエーションをあえて説明もなく組み込める、という優位も、恐らくは意識的に利用している。時速140kmに達することで時間移動する力を蓄えられる、という設定や、未来に撮ってきた写真を手がかりに、その影響を推し量る、という趣向は、第1作・第2作でずっと利用していたからこそ説明抜きに伝わるものだ。シリーズであるからこその利点を活かしつつも、違った見せ方を意識的に行っているのである。
個人的に、これだけ時を経て鑑賞した意味があった、と思うのは、本篇の見せ場がほぼ“西部劇”の文法に則っていることだ。本篇が公開された当時はまだ映画にさほど関心がなく、既に主流から外れつつあった――まして子供にとっては馴染みの薄かった西部劇とあっては、単純明快な活劇とはいえ、充分に面白みを理解できたのかはおぼつかない。しかし、ある程度西部劇に親しんだいま鑑賞すると、そのお約束に対する忠実っぷりが醸しだす味わいが余計に強まる。1885年に飛ぶ、と決めたあとのマーティの衣裳と、彼に対する当時のひとびとの反応などはさもありなん、と感じさせるし、未来に戻るためのアイディアが基本的に西部劇のガジェットからはみ出さない、というのも愉しい。具体的には見せないが、ちゃんと駅馬車強盗なんてモチーフまで組み込まれている。
しかし、私が特に痺れたのは、西部劇のお約束に巻き込まれたマーティの“機転”である。彼自身の言動も鍵となっているが、その出所を考えると、西部劇に親しむ映画ファンとしてはニヤリとせずにいられない。前作から4ヶ月置いての鑑賞だったため、私は咄嗟に思い出せなかったのだが、実はこのくだりについての伏線がきちんと前作に用意されていたことにも唸らされる。西部劇というものの知識があるとより愉しめるのは間違いないが、まったく知識がなくとも興奮し、笑わせる仕掛けにきちんと昇華しているのだ。
そこに放り込まれた現代人マーティと、行き過ぎた科学知識を持ち合わせたドクという存在の滑稽さ、という部分を軸に、西部劇に親しみのない層を牽引しながら、マニアを納得させ、ちょっとしたくすぐりも忘れない。クライマックスの問答無用の力強さも逸品だ。
教訓じみた主題や台詞をちりばめながらも、シリーズを支えてきた稚気や愛嬌も最後まで損なわない。やはり第1作には及ばず、と言わざるを得ないが、あの世界観をシリーズとして膨らませる、という厄介な課題に対する答としては、満点に近い出来である。そして個人的には、マーティにとってほんの数日程度であったはずの経験を、30年近く費やして追体験する、という恐らく滅多にない経験をさせてくれた、という意味で、忘れがたい作品になったように思う――他のひとにこんな迂遠な鑑賞の仕方を勧める気はまったくないが。
関連作品:
『フライト』
『ピラニア3D』
『タイムマシン』
『時をかける少女』
『荒野の用心棒』
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