監督:小津安二郎 / 脚本:野田高梧、小津安二郎 / 製作:山本武 / 撮影:厚田雄春 / 美術:浜田辰雄 / 照明:高下逸男 / 音楽:斎藤高順 / 出演:笠智衆、東山千栄子、山村聰、三宅邦子、村瀬禪、毛利充宏、杉村春子、中村伸郎、原節子、大坂志郎、香川京子、十朱久雄、長岡輝子、東野英治郎、高橋豊子、三谷幸子、安部徹、阿南純子 / 配給&映像ソフト発売元:松竹
1953年日本作品 / 上映時間:2時間15分
1953年11月3日日本公開
第三回新・午前十時の映画祭(2015/04/04〜2016/03/18開催)上映作品
2013年7月6日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon|Blu-ray Disc:amazon]
TOHOシネマズ日本橋にて初見(2016/03/07)
[粗筋]
尾道に暮らす平山周吉(笠智衆)と妻のとみ(東山千栄子)は、長男の幸一(山村聰)や長女の志げ(杉村春子)、次男の未亡人である紀子(原節子)が生活する東京を訪ねた。
最初は、住宅街で開業医を営む幸一の自宅兼診療所に厄介になっていた周吉たちだが、休日でも急患が出れば往診に向かう幸一に老いた両親を構う余裕はない。やむなく志げのところに身を寄せるが、自宅で営む美容院の責任者である志げはあからさまに周吉たちを邪険に扱った。
なかなか東京見物にも出かけられない周吉たちをさすがに見かねて、志げは紀子に東京の案内を頼んだ。夫亡きあと、商社に勤める紀子だったが、「いまは暇な時期だから」と義理の父母の面倒を快く引き受けた。自身の暮らす公団住宅まで招いて歓待してくれた紀子に、周吉たちは感謝する。
しかしその後も、幸一や志げには、遠路はるばるやって来た両親の世話をする暇は出来そうもなかった。少しぐらいは羽を伸ばさせてやりたい、と考えた志げの提案で、兄妹はお金を出し合い、周吉夫妻を熱海旅行へと送り出すのだった……。
[感想]
鑑賞した新・午前十時の映画祭のスケジュールの都合で、本篇よりもあとに製作された『秋刀魚の味』を先に観ている。内容そのものに明確な繋がりはないので、どっちを先に観て問題がある、というものでもないのだが、或いは発表された順番どおりに鑑賞するべきだったのかも知れない。
何故かというと、本篇と『秋刀魚の味』は演出の手法がほぼ同一であり、プロットの思考法にも相通じるものがあるためだ。本篇でその技巧はもはや完成されている感があるが、較べてみると本篇なくして『秋刀魚の味』は作られなかったようにさえ思える。本篇においてはしばしば閃いていた冷徹さを更に抑制し、ラストシーンに凝縮することで効果を高めようと試みたのが『秋刀魚の味』だった、と言えるのではなかろうか。
だから、本篇を観ていると、序盤からちらつく周吉の子供たちが両親に対して示す冷ややかな態度にしばしばギクッとさせられる。あからさまなのは長女の志げだが、彼女が両親不在の場所で口にする赤裸々な本音を、幸一や志げの夫は窘めようともしない。決して悪口を言っているわけではなく、台詞には節度が窺えるものの、初めてその会話が交わされるシーンには軽い衝撃が走る。
決して親子や家族としての情が失せたわけではないのだ。そうした描写が示すのは、幸一や志げにとって、いまや生活の拠点は東京であり、そこで得た仕事が営みの軸となっている。そこに、隠居してやることのない両親を置く場所がない。
これは何ら不思議なことではない。仮に舞台が地方であったとしても似たようなことは起こる。たとえば漁の仕事がある、農作業の収穫期である、観光の書き入れ時だ、という時期に、そうした仕事に慣れない人間が紛れ込めば異物扱いされる。
親元から独り立ちし、それぞれにまったく異なる就業形態、勤務様式を求められる状況では、特にこうした構図に陥りやすい。高度成長期に入っていた当時、この構図が最も現れやすかったのが“東京”という舞台だったのではなかろうか。
そうして、的確な舞台を与えられた物語は、品位のある柔らかさをまといながら、冷徹に転がっていく。前述したように、親子の情が失せたわけではないのだ。しかし、弁解しながら両親を熱海へと送り出すくだりなど特に、ユーモアに包んだ冷たさが染み出すようで、やり取りはどこかコミカルなのに、慄然とさえする。
本篇の周到ぶりは、ここに戦死した次男の未亡人・紀子を残したことで極みに達する。もともと善良な心持ちのひとだったようにも思えるが、本来他人であるはずの彼女が、頼まれて周吉ととみの東京案内を快く引き受けるのも、終盤の災難においていちばん親身に振る舞うのも、素直に優しさと取ることは出来るが、大きいのは本来の繋がりである次男の絶対的な不在だろう。未だに亡き夫に残した心が、義理の両親への接し方に窺えるが、都会においてアパートでひとり暮らしをし、自立して生活しようと考えるなら、どうしても周りの目、認識が気になってくる。そういう保身が働けば、仮に温情がなかったとしても、接し方は紀子のようになるのだ――あまりに冷淡な見方かも知れないが、しかし似たようなことを本人が考えていたことは、終盤の台詞でも仄めかされる。そんな彼女に周吉が感謝し、その言葉に泣き崩れる紀子の姿は、だからこそ本篇の数少ない救いであり、最も印象深い一場面となったと言えよう。
本篇に、あからさまな悪人は登場しない。全体的にあけすけな口を利きがちな志げでさえ、嫌悪感よりも、その言葉に共感を覚えるはずだ――この絶妙な匙加減は、脚本自体の質の高さも当然あるが、日本の映画史・演劇史にその名を残す名女優・杉村春子の実力があってこそだ。やもすると、穏やかな哀愁を称えた周吉・とみ夫妻や、気丈だが儚げな佇まいが美しい紀子よりも、憎たらしくも愛嬌のある志げのほうを思い出してしまうくらいだ。そして、物語の本質を特に体現するひとりである志げのこの捉え方が、本篇の突きつける哀しい現実を、観る者の胸に焼き付けるのだ。
いまや本篇は日本のみならず、世界的に見ても、映画史に残る傑作と認識されている。個人的な好みで言えば、善意がより曇りなく描かれているからこそラストシーンが沁みる『秋刀魚の味』のほうを買うのだけど、本篇が途方もない傑作であることは確かだと思う。たぶん、100年後に接する観客でさえ、本篇には強い感銘を受けるに違いない。
関連作品:
『秋刀魚の味』
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