原題:“Synecdoche, New York” / 監督・脚本・製作:チャーリー・カウフマン / 製作:アンソニー・ブレグマン、スパイク・ジョーンズ、シドニー・キンメル / 製作総指揮:ウィリアム・ホーバーグ、ブルース・トール、レイ・アンジェリク / 撮影監督:フレデリック・エルムズ,ASC / プロダクション・デザイナー:マーク・フリードバーグ / 編集:ロバート・フレイゼン / 衣装:メリッサ・トス / 視覚効果監修:マーク・ラッセル / キャスティング:ジャンヌ・マッカーシー / 音楽:ジョン・ブライオン / 出演:フィリップ・シーモア・ホフマン、サマンサ・モートン、ミシェル・ウィリアムズ、キャスリーン・キーナー、エミリー・ワトソン、ダイアン・ウィースト、ジェニファー・ジェイソン・リー、ホープ・デイヴィス、トム・ヌーナン、セイディ・ゴールドスタイン、ロビン・ワイガード / 配給:Asmik Ace
2008年アメリカ作品 / 上映時間:2時間4分 / 日本語字幕:石田泰子 / PG-12
2009年11月14日日本公開
公式サイト : http://no-ny.asmik-ace.co.jp/
[粗筋]
劇作家のケイデン・コタード(フィリップ・シーモア・ホフマン)は人生の岐路に立たされていた。芸術家である妻アデル(キャスリーン・キーナー)との関係はいつの間にか冷え込み、自身の肉体も謎の病に蝕まれ、既に半ば死を覚悟しつつある。慎重に準備を重ねてきた渾身の新作舞台は賞賛を浴びたが、アデルは間もなくベルリンでの個展開催を契機に、ひとり娘のオリーヴ(セイディ・ゴールドスタイン)を伴って家を離れてしまった。
ケイデンは前々から親しく接していた劇場の受付嬢ヘイゼル(サマンサ・モートン)と接近していくが、妻や娘への未練が振り切れず、関係を深めることが出来ないまま、自然と疎遠になっていった。
孤独感を募らせていくなか、だがケイデンに初めて幸運が訪れる。マッカーサー・フェロー賞、通称“天才賞”授与の報せが届いたのである。“天才賞”は受賞者がその頭脳を存分に活かせるよう、活動資金として天文学的な賞金を与えてくれる。ケイデンはさっそく、理想通りの演劇を制作するべく、ニューヨークの片隅にある廃工場を買い取り、その中に壮大なセットを構築しはじめる。
ケイデンが着手した新作は、現実のニューヨークの中に、もうひとつのニューヨークを作りだす、というものだった。無数のキャストを招き、彼らに演じさせるのは彼ら自身の、そしてケイデン自身の人生。
だが、このあまりにも壮大な計画は、彼の人生の変遷に合わせて、次第に制御不能になっていく……
[感想]
スパイク・ジョーンズとミシェル・ゴンドリーというふたりの監督には共通点がある。いずれもミュージック・ヴィデオなどを経て映画監督となった人物だが、いずれも最初の長篇作品の脚本をチャーリー・カウフマンが担当している。この1作目の強烈なインパクトが奏功して、ふたりともそれ以降、縛りの強いメジャー系の作品であっても、かなり自由な発想で映画を撮ることが許されている。スパイク・ジョーンズなら『アダプテーション』が顕著な一例だし、3作目以降は自らが脚本を手懸けることが多くなったミシェル・ゴンドリーも『僕らのミライへ逆回転』という映画愛に満ちたユニークな作品を発表している。
両者の活躍の鍵を握る重要人物であるチャーリー・カウフマンの、本篇は待望となる初監督作品である。前述の『アダプテーション』や、空想的な素材を用いて恋愛の現実をチャーミングに描いた傑作『エターナル・サンシャイン』に惹かれた私としてはどうしても期待してしまう1本であったが、観終わった直後の感想は、率直に言えば「期待外れ」であった。
序盤から繰り出される奇妙なモチーフには目を惹かれるものの、描写がとても平坦で次第に飽きてくる。また、個々のモチーフが極端なまでに断絶しているうえ、しばしば矛盾も来していくので、終始理解に苦しむ。最後に来て、若干ショッキングな場面があるお陰で一瞬持ち直しはするが、結局個々の出来事は結びつかず、また何らかの解決が齎されることなく終わってしまうので、放り出された気分を味わう人も多いだろう。
だが、観終わったあと、いったい何が引っ掛かったのか、何がいけなかったのか、を検証するために個々の描写を拾い、解釈を繰り返していくうちに、どんどん印象が変わっていった。観ているあいだ非常に眠気を覚えたのも事実だが、にも拘わらず、時間を経たいまは、端倪すべからざる作品、に評価は一変している。
無意識に並べた描写が矛盾しあって違和感を齎す、というのは言語道断だが、本篇の場合はしごく自覚的に矛盾を詰め込んでいる節があるのだ。それは、主人公ケイデンが、現実を反映した演劇を作りはじめ、それが際限なくセットの建設、役柄の追加によってどんどん膨張し、核を見失っていく過程と重ね合わせることで、複雑な入れ子構造が生まれていく。いったい何処から何処までが虚構で、どこからが現実なのか解らなくなるのだ。
序盤から奇妙な点はある。ケイデンの娘オリーヴはあり得ない色の排泄物を出すことを自分でやたらと気にしているし、ケイデンの病気は一向に主体が解らない。そもそも彼が現実に作る演劇も構造が非常に複雑すぎて、断片的にちらつかせているだけだ、という点を差し引いても意味不明だ。
決定的なのは、ケイデンの人生に最後まで関わりを持つことになるヘイゼルが、いちどケイデンと関係を深めるのを諦め、自分の家を購入することに決めた場面である。下見に訪れた家はあろうことか火が出ているのに、ヘイゼルも案内人もさほど気にしない。それどころか、地下には案内人の息子が住みついており、案内人は息子ごとヘイゼルに売りつけてしまう。のちにこの家をケイデンは幾度か訪れるが、ずーっと火がついているのに、いつまで経っても全焼しない。それどころか、この家でヘイゼルの辿る末路は、悪い冗談としか思えない代物だ。
ヘイゼルは現実に位置づけるべき存在なのか、それとも虚構のあわいに漂う存在なのか。そもそも本篇ははじめから、ケイデンという創作者が、神経症的に蝕まれた頭の中に思い描いた構築物の断片なのではないか?
この、内と外との区別がつかなくなる異様さを何よりも強調しているのが、宣伝でも用いられている、ケイデンがニューヨークの片隅に構築したもうひとつのニューヨーク、という主題の演劇である。粗筋で記したあとあたりから、ケイデンはこの劇中に自分自身を登場させることを考えるが、ケイデン自身を演じるのは、映画の序盤からしばしば画面の端に顔を見せていた謎の人物であり、これといった理由もなくケイデンを観察し続けていた男なのだ。更に話が進むと、このケイデン役の俳優が現実のヘイゼルに懸想して、いっそうややこしいことになっていく。
では、全体として何を言いたいのか、だが、そこを観客が各々掘り下げていくことこそ、本篇の面白さであり、何よりも強調したかった楽しみ方なのだろう。私の見方では、本篇は非常に深化させたメタ・フィクションであり、チャーリー・カウフマン流『ドグラ・マグラ』なのだが、個々の要素の非現実性に着目して、毒々しくも切ないファンタジーと捉えるのも見方のひとつだと思う。
ただそれでも、本篇は出来れば他の監督に演出を委ねるべきではなかったか、という思いは拭えない。もっと映像上の工夫や、テンポにメリハリが設けられていれば、最後まで飽きずに観ることも可能だっただろうし、いっそう表現にどっぷりとのめり込めたのではないか。意味は不透明でも、直感的に沁みてくるもののあるラストシーンも、いっそう効果的に響いたのではなかろうか。
その作り故に、安易にお薦めすることは出来ない。だが、意識して表現の機微を拾い上げ、解釈することに楽しみを見いだせるような人であれば、いちど挑んでみる価値はある。少なくとも、チャーリー・カウフマンという脚本家が未だ映画界でユニークな地位を占めており、その才能には未だ端倪すべからざるものがある、ということは再確認できるはずだ。
関連作品:
『アダプテーション』
コメント