『ウォールフラワー』

TOHOシネマズシャンテ、施設外壁の看板。

原題:“The Peaks of Being a Wallflower” / 原作、監督&脚色:スティーヴン・チョボスキー(アーティストハウス/集英社文庫・刊) / 製作:リアンヌ・ハルフォン、ラッセル・スミス、ジョン・マルコヴィッチ / 製作総指揮:ジェームズ・パワーズスティーヴン・チョボスキー / 撮影監督:アンドリュー・ダン,BSC / プロダクション・デザイナー:インバル・ワインバーグ / 編集:メアリー・ジョー・マーキー,A.C.E. / 衣装:デヴィッド・C・ロビンソン / 音楽:マイケル・ブルック / 音楽スーパーヴァイザー:アレクサンドラ・パットサヴァス / 出演:ローガン・ラーマンエマ・ワトソンエズラ・ミラー、メイ・ホイットマンケイト・ウォルシュディラン・マクダーモットメラニー・リンスキー、ニーナ・ドブレフ、ジョニー・シモンズ、ジョーン・キューザックポール・ラッド / ミスター・マッド製作 / 配給:GAGA

2012年アメリカ作品 / 上映時間:1時間43分 / 日本語字幕:石田泰子

2013年11月22日日本公開

公式サイト : http://wallflower.gaga.ne.jp/

TOHOシネマズシャンテにて初見(2013/12/25)



[粗筋]

 チャーリー(ローガン・ラーマン)の高校生活の始まりは暗澹たるものだった。“持病”のある彼は身構えたあまり、デビューに失敗し、初日に口を利いてくれたのは国語教師のアンダーソン氏(ポール・ラッド)だけだった。このままだと、長い学生時代、昼休みのたびにひとりで食堂のテーブルを独占することになりそうだった。

 転機は、フットボールの応援に赴いたときに訪れた。例によってひとりで飲物とポップコーンを携え、何となく周りに合わせてやり過ごそうとしていたチャーリーに、上級生のパトリック(エズラ・ミラー)が気づいた。彼は同じ美術のクラスを取っているチャーリーのことを覚えていて、気さくに隣に誘った。パトリックの義理の妹サム(絵馬・ワトソン)もチャーリーを違和感なく受け入れ、気づけばチャーリーは彼らと仲間たちの輪のなかに組み入れられていた。

 こうして、チャーリーの高校生活は一変した。ずっと“壁の花”だったからこその観察力で、相手の良さを見抜く彼の人柄に、メアリー・エリザベス(メイ・ホイットマン)たちパトリックの幼なじみたちも魅力を感じていた。チャーリーもまた、自分が作家志望であることを見つめなおすようになり、“持病”と無縁の日々を送るようになる。

 ただ、同じ頃に芽生えたチャーリーの初恋は、報われそうもなかった。彼が恋したのは、他でもないサムであったが、彼女には既に大学生のクレイグ(リース・トンプソン)という恋人がいる。サムもチャーリーの想いに気づいているが、応えることは出来なかった……

[感想]

 青春ドラマ、というのは、まともに描こうとすると大抵“痛い”ものだ。次第に剥き出しになる感情が痛々しかったり、人気取りや色欲に奔走するさまが見苦しかったり、と種類は様々だが、大抵“痛い”で括られる。

 そういう意味で本篇も例に漏れないが、しかし本篇の“痛さ”には、青春映画によくある過剰な熱気がなく、微温的であるぶん、まるでボディブローのようにじわじわとダメージが蓄積されてくる。激しく目立とうとしているわけでもなく、穏やかに輪に入ろうとしているだけなのに、あっという間に爪弾きにされてしまう様は、語り口が軽快であってもなかなかに辛いものがある。

 序盤でチャーリーが見せる焦躁や、一見滑稽な振る舞いには、しかし目立ちたがりではない大多数の高校生、或いはもと高校生には共感するところが多いはずだ。目立つつもりはない、けれどどこかの輪に加わらなければ出遅れる。架空の友人に対する手紙、という格好で綴られるナレーションの、なんでもない風を装った語り口さえ切ない。

 ただ、それでもパトリックとサムの兄妹と接点を得たくだり以降は、やはり絵空事に映る。決して突き抜けた人気者、という雰囲気ではないが、チャーリーに比べれば遥かに華があり、そして当人も終盤で口にする通り、まさに青春ドラマを地で行くような設定の彼らは、チャーリーの住んでいたところとは異なる世界から現れたかのようだ。そんな彼らが、不意に袖が触れ合っただけのチャーリーをすぐに気に入って仲間に招き入れる、という展開は、序盤の圧倒的な痛々しさと比較するとどうも浮ついた心地がする。

 そうしたくだりが、しかし言うほどに不自然に思えないのは、前述した架空の友人に対する手紙、という体裁を取ったナレーションが続いているせいもあるが、チャーリーが自身の立場も含め、仲間たちの振る舞いを終始、客観的に眺めているからだ。仲間たちと交流を深めながらも、そういう己の幸運を素直に認めている。本篇の原題は“壁の花になることの特権”という意味合いだが、まさにその特権を有効に用いているからこそ、チャーリーをこの物語の主人公たらしめている。

 虚構じみているとは言え、そうしてパトリックやサムと交流を深めて以降の描写には、やはり不自然さは乏しい。快活で魅力的なひとびとが抱える秘密や鬱屈を知り、彼らを大切に想うからこそその気持ちや価値観を裏切りたくない、と思ってしまうチャーリーは、結果的に不幸な物語を選択してしまう。描き出された個性を崩すことなく、彼の人柄通りナイーヴに物語は紡がれていく。その様は相変わらず“痛い”が、それ以上にとても“切ない”。なまじ彼の立ち位置が、あまりフィクションっぽさを感じさせないから、そこで経験する苦しみにも生々しさがある。軽さを損なわないまま語られる、彼の恋が向かう予想外の成り行きには、思わず笑わされ、かつ最後には切なさを味わわされる。軽妙さと哀切さの匙加減が秀逸だ。

 この物語において、チャーリーにはもうひとつ特異な事情がある。わりと生々しい設定の、ここだけが少々虚構じみているところだが、しかしそれがやもすれば出口を失いかねなかった物語に着地点をうまくもたらしている。実は本篇には、チャーリーの交流関係に意地悪な罠にも似た仕掛けがあり、察しのいいひとなら、物語のあとにもういちど彼に不遇の時代が訪れることが想像出来てしまうのだが、この点でさえも、終盤にチャーリーが初めて悟る自分の“事情”がほどよく和らげている――決して愉しいばかりでなかった、苦い出来事も含めた一連の記憶が輝かしい宝物となって、彼に救いを与える。

 この大胆かつ繊細な作品に、間違いなく“旬”で、実力を備えた俳優が説得力を与えている。『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』のダルタニアンや『パーシー・ジャクソン』シリーズのタイトルロールなど、話題作・大作での出演が相次ぐローガン・ラーマンは少し風変わりだが凡庸な少年を快く演じ、『ハリー・ポッター』のハーマイオニーでその名を浸透させたエマ・ワトソンはあの役柄から脱皮し、キュートだがそれ故に当たり前の経験を重ねた少女を体現している。『少年は残酷な弓を射る』で鮮烈なイメージを残したエズラ・ミラーは、妖しい魅力を留めたまま、マイノリティに属する性的嗜好を持つが故の揺らぎを巧みに演じている。仲間同士のときに見せる屈託のない笑みと、傷を負ったとき、心を許した相手に見せる影の滲んだ笑みのコントラストが素晴らしい。

 演出、演技いずれも優秀な作品ながら、ひとつ、個人的にちょっと引っかかったのは、作中で最も印象的な場面にかかる音楽のことだ。本篇はチャーリーたちの音楽的嗜好もポイントとなっているが、問題の場面で実際に流れる曲の情報が、登場人物にも解らない、という話になっている。これが最後できちんと判明するのだが、アーティストはデヴィッド・ボウイだった――個人的にはちょっと腑に落ちない。音楽のセンスを話題にし、ヒット曲に限らず聴き漁っているような話をしているなら、デヴィッド・ボウイの特徴的な歌声はすぐに気づく。まして問題の曲は、映画でもしばしば採り上げられる、繊細な演奏に特徴のあるプライアン・イーノが共作していて、彼らの別の曲に接していれば、もしや、とピンと来てもいいはずだ。それを、あの段階まで察しがつかない、というのはいまひとつ納得がいかない。

 ……と、いちおう難癖はつけておくが、大した問題ではないし、盲点に入って見失うこともさほど珍しくはないので、マイナスにはあたるまい。虚構故の飛躍を随所に施しながらも、決して絵空事ではない実感を籠め、多くの凡庸な青春時代を過ごす、或いは過ごしたひとびとに共感を与える、上質の青春映画である。類似の作品に多くある、紛い物っぽい空気に馴染めないひとでも、本篇には恐らく感銘を受けるはずだ。

関連作品:

三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船

少年は残酷な弓を射る

マイレージ、マイライフ

ゴースト・ハウス

私の中のあなた

ナイト ミュージアム

クロニクル

キャリー

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