原題:“一代宗師 The Grandmaster” / 監督&原案:ウォン・カーウァイ / 脚本:チョウ・ジンジ、シュー・ホーフェン、ウォン・カーウァイ / 武術指導:ユエン・ウーピン / 製作:ウォン・カーウァイ、ジャッキー・パン / 製作総指揮:ソン・ダイ、チャン・イー・チェン、ミーガン・エリソン / 撮影監督:フィリップ・ル・スール / プロダクション・デザイナー:ウィリアム・チャン、アルフレッド・ヤウ / 編集:ウィリアム・チャン / 音楽:梅林茂、ナサニエル・メカリー / 出演:トニー・レオン、チャン・ツィイー、チャン・チェン、マックス・チャン、ワン・チンシアン、ソン・ヘギョ、チャオ・ベンシャン、シャオ・シェンヤン、ユエン・ウーピン、ラウ・カーヨン、チョン・チーラム、カン・リー / 配給:GAGA
2013年香港、中国、フランス合作 / 上映時間:2時間3分 / 日本語字幕:水野衛子 / PG12
2013年5月31日日本公開
公式サイト : http://grandmaster.gaga.ne.jp/
TOHOシネマズ日劇にて初見(2013/06/22)
[粗筋]
1936年、中国南部にある佛山には、多くの武術家が集まっていた。そのなかでも特に手練れとして知られるのが、女性が始祖と言われる詠春拳の陳華順(ユエン・ウーピン)最後の弟子・葉問(トニー・レオン)である。
この頃、中国武術全体の存続のために、流派の統合を理想として掲げる北の武術界の大物・宮宝森(ワン・チンシアン)が佛山を訪れた。年老いた彼は、最後に残したこの理想を、自分の最後の戦いに勝利した者に託す、という意志を佛山の武術家たちに告げる。そして、多くの達人たちが自分たちの代表として差し向けたのは、葉問であった。
自分よりも相応しい者が大勢いる、と当初は拒んだ葉問だが、同胞たちの熱心な勧めに応え、宮宝森との対決に赴く。宮宝森が提示したのは、技術ではなく、思想での戦いであった。国の武術に北も南もない、と告げて流派を継いだ人物の逸話を語った宮宝森は、餅を手に取り、これを割ることが出来るか、と葉問に問う。しかし葉問は臆することなく、流麗たる業で餅を割り、こう返した。自分が見ているのはこの国だけではない。詠春拳が優れた武術であるなら、それはきっと世界に広がっていく、と。宮宝森はこの言葉に感銘を受け、敗北を認めた。
だが、宮宝森の娘・若梅(チャン・ツィイー)は父が出した結論を易々と受け入れることは出来なかった。葉問に果たし状を送り、自らその腕を確かめる。葉問は寛大な条件を提示してこの挑戦を受けた結果、彼女に屈するが、しかし若梅も葉問の実力と、人間的魅力を認めた――それどころか、心惹かれるものさえ感じた。
かくて葉問は名実ともに中国武術界の頂点に立った。だが、このときが葉問にとって、人生の絶頂だった。間もなく彼の季節は、春から一足飛びに冬を迎える――日本軍が台頭し、佛山を占領したのだ。
[感想]
カンフー映画最大のスター、ブルース・リーが師事したという、詠春拳の達人・葉問は、2008年に製作された香港映画『イップ・マン 序章』でも採り上げられている。いちばん最初にウォン・カーウァイ監督がこの人物についての映画を製作する、と決意してから17年の月日を費やし、そのあいだに頓挫も経験している、ということなので、実質この2作は同時期に製作されていたようだ。
しかし本篇でのこの人物の描き方は、あちらとはかなり趣が異なる。当代きってのアクション俳優と言っていいドニー・イェンを起用し、その高潔な戦いぶりを描くことに執心した感のある『イップ・マン』シリーズに対し、本篇はアクションのイメージは決して強くないトニー・レオンを配し、よりドラマや映像美に重点を置いた印象だ。撮影前にチャン・ツィイーも含め、きちんとそれぞれの流派の指導者に付いて基礎を学び、ブルース・リー以降のカンフー・アクション映画に貢献の多大なユエン・ウーピンが監修したアクション・シーンにもまったく手抜きはないが、全体の佇まいは大幅に違って映る。
残念ながら、その仕上がりは恐らく、本格派のカンフー・アクションを求めているひとにとっては決して満足のいく作り方ではあるまい。殴られた衝撃で歪む人間の顔や、ひとが衝突して振動する柵や割れるガラス、身を翻す葉問が被った帽子から弾ける雨粒、といった局所的な映像を織りこんだアクションは驚くほど華麗だが、しかし全体像を捉える映像が少ないため、全体の動きの激しさをあまり強く印象づけない。従来のカンフー映画とは対極に位置する表現にこだわっているため、たとえばブルース・リーやジャッキー・チェンといった香港が生んだカンフー・アクション俳優たちの傑作群がもたらす興奮、カタルシスを求めていると、かなり確実に失望を抱くのではあるまいか。
本篇のタッチは、徹頭徹尾、従来のウォン・カーウァイ監督作品そのものと言っていいようだ――私がちゃんと観たのは近作2本のみであるが、全体の辻褄よりもムードを重視したかのような、飛躍が多く全体からすると遊離しているかのように感じる登場人物もいる特徴的な語り口は相通じているし、何より本篇はカンフー映画でありながら、個々の戦い以上に、それぞれの感情に重きを置き、結果として葉問と宮若梅のあいだに芽生える、清廉な恋愛感情めいたものを特に採り上げたような趣があり、それもまた、ラヴ・ストーリー主体であったウォン・カーウァイ作品からはみ出していない。
出演者には脚本を渡さず、時としてその場のインスピレーションで話を造り替えることもある、といわれるウォン・カーウァイ監督の作品は、物語として眺めたとき、無駄に感じられる要素が残ることがある。本篇でも、途中で交錯する人物の存在が、けっきょく終盤で本筋に結びつかず終わってしまうため、お話を重視して鑑賞するとまとまりが悪く思える。全体を貫くテーマに接するところがあるので、結果としてまったくの無駄ではないのだが、もう少し接点を設けて、本篇にいささか乏しいカタルシスの演出、或いはどうしても物足りないアクションの迫力を付け加える役に立てても良かったのでは、と惜しまれる。
だが、決していつも通りの、まるっきりのロマンスではないし、そのためにカンフーを利用したわけではない。本篇の精神は従来の、優れたカンフー映画が宿す、武を志す者に求められる精神に通じている。
むしろ、随所で人物の表情を繊細に捉えるカメラワーク、全体像よりも拳や足を拡大し、動きの細部をスローモーションで描き出す本篇の表現は、武術が他人との戦いとともに、自分自身との戦いでもある、という面を、従来のカンフー映画よりも見事に剔出している、とも言える。当初は苦労知らずだった、という葉問が40歳を過ぎて初めて経験する挫折、そこから終盤、宮若梅と最後に交わす会話のなかで述懐する境地に至る、あの姿は確かに、ほかのカンフー映画でも時折語られる武術の本質に他ならない。そこに辿り着くこと叶わず倒れる者、もしこのまま進めば逸脱していくであろう、と予感させる者の姿も添えることで、葉問という人物が上り詰めようとしていた高みを際立たせている。
ほかのウォン・カーウァイ監督作品にある、アドリブ的な語り口の孕む冗長さ、華麗である一方、牽引力を欠いてしまったアクションなど、もっと研ぎ澄ませたのでは、と思われるポイントもあるので、手放しでは賞賛しがたいし、個人的には傑作の手前で留まってしまった、という評価になってしまう。だが、従来のカンフー映画では達し得なかった境地に辿り着いた、という意味では、優れたカンフー映画と呼んでいいと思う――それでも、カンフー映画愛好家の誰しもを唸らせる、とは言い難いので、やっぱり薦め方には困るのだけど。
関連作品:
『2046』
『SPIRIT』
『ホースメン』
コメント