原題:“Dupa Dealuri” / 英題:“Beyond the Hills” / 原作:タティアナ・ニクレスク・ブラン / 監督、製作&脚本:クリスティアン・ムンジウ / 撮影監督:オレグ・ムトゥ / プロダクション・デザイナー:カリン・パプラ、ミハエラ・ポエナル / 編集:ミルチェア・オルテアヌ / 録音:クリスティアン・タルノヴェツキ / 出演:ユスミナ・ストラタン、クリスティナ・フルトゥル、ヴァレリウ・アンドリウツァ、ダナ・パラガ、カタリナ・ハラバジウ、ジーナ・ツァンドゥラ、ヴィカ・アガケ、ノラ・コヴァリ、ディオニシエ・ヴィトゥク、ヨヌツ・ギネア / 製作:モブラ・フィルムズ / 配給:MAGIC HOUR
2012年ルーマニア、フランス、ベルギー合作 / 上映時間:2時間32分 / 日本語字幕:寺尾次郎 / 字幕監修:新免光比呂 / PG12
2013年3月16日日本公開
公式サイト : http://www.kegarenaki.com/
ヒューマントラストシネマ有楽町にて初見(2013/04/24)
[粗筋]
ヴォイキツァ(ユスミナ・ストラタン)とアリーナ(クリスティナ・フルトゥル)は同じ孤児院で育った。アリーナがドイツに渡るまでは、家族も同然の関係だったが、アリーナが去ったあと、ヴォイキツァはその哀しみを信仰によって克服した。丘の上にある修道院に入り、神のそばに仕える暮らしを選んだのである。
だかそこへ、いまさらアリーナが戻ってきた。ひとりでの暮らしに悩み苦しんだ彼女は、ヴォイキツァに救いを求め、ドイツでも一緒に暮らして欲しい、と懇願してきたのだ。既に神の存在なくして生きていくことなど考えられないヴォイキツァは、落ち着くまで同行する、というつもりでいるが、アリーナにも、身を寄せている修道院の神父(ヴァレリウ・アンドリウツァ)にも話せぬまま、アリーナを迎える羽目になる。
いちど信仰を離れれば2度と戻ることは出来ない、もし一緒にドイツへ行くなら帰還することは許さない、と神父は警告し、体調を崩したアリーナの代わりに書類を取りに赴いた役所では、ヴォイキツァのぶんしか確保出来ず、アリーナが予め購入していた旅券のスケジュールに間に合わない。不安を募らせたアリーナは翌日、井戸に飛び込もうとするところを目撃され、引き留めようとした神父や修道女たちに反発、激しく暴れ出した。
神父たちはアリーナを病院に担ぎ込む。医師は入院を要する難しい病であることを指摘しながら、既に患者が溢れていること、修道院なら平穏な環境が望める、という理由で、彼女の身を神父やヴォイキツァらに託した。
ヴォイキツァと旅立つ希望を断たれたアリーナは、修道女たちに伴われていちどは里親の元へと戻されそうになるが、すべての持ち物や所持金を寄付し、修道院に入る、と言い張る。しかし、ずっと世俗に暮らし、信仰よりも親友に対する想いの強いヴォイキツァと、修道院のひとびととの価値観は相容れず、やがて両者の溝は深刻な事態を引き起こす……
[感想]
ここで語られているのは、2005年のルーマニアで実際に起きた事件に基づいている。国際的な報道機関も伝えていたため、記憶の残っているひともあるだろう。こういう報道の例に漏れず、関係者の背後事情やその後の展開について知る機会はあまりなく、私もまたこの事件を“中世の風習を引きずった人々が引き起こした悲劇”程度に捉えていたが、事実にかなり忠実に作られた本篇を観ると、かなり雑な理解だった、と言わざるを得ない。
確かに、修道院で暮らすひとびとの価値観は古臭く、浮き世離れしている。しかしそれは決して何の意志もなく昔の思考、習慣に束縛されているのではなく、俗世をある程度は知ったうえ、自らの信仰を全うする覚悟があって築いたものだった。そういう彼らの生活を、外界から入り込んで掻き乱したアリーナという存在に対しても、悪意をもって接してはいない。俗世で罪にまみれた彼女を憐れみ、慈悲の心で救おうとした、その結果だったのだ。
やがて“悪魔祓い”の儀式を受けることとなるアリーナのほうは、実際俗世に生きる我々の眼から見ても、かなり奇矯な振る舞いをしている。序盤から、困惑するヴォイキツァに対する過剰な執着を見せ、彼女が修道院に残りたい素振りを見せると苛立ち、自らの信仰によって自身を推し量ろうとする神父や修道女に反発する。あまりの極端さに、話の中で病を患っている姿さえも、仮病に思えてしまうほどだ。
しかし彼女のほうも決して、理由なしでこんな狂的な反応をしているわけではない、というのは語られる状況からほの見えてくる。もともと孤児院育ちで、あとあと登場する里親の態度からすると、そこでも決して快く受け入れられていたわけではない、ということが窺える。また、熱を出しているときや激情に駆られた際の激しい言動は、情緒不安定な部分がちらつき、大きな心の傷を負っている可能性を匂わせる――実際の事件で犠牲となった“修道女”は、孤児院にいたころから何らかの性的虐待を受けていたそうで、本篇のアリーナの描写にはそこに起因する統合失調症の傾向も織りこまれているらしい。新天地と目指したドイツでも恐らく幸福を味わうことは出来ず、それ故に彼女が縋った親友は、信仰に心を奪われていた。修道院のひとびとにとってアリーナが罪人に見えていたのと同じくらいに、アリーナには修道院のひとびとが狂信的な悪魔に見えていた、という捉え方も出来よう。
観終わったあとで細部について考察していくと、実のところ本篇には誰ひとりとして、悪意で行動している者はいない。修道女のなかに、アリーナに対して嫌味めいた言動をする者はいるが、それさえも恐らくは、自らと同じ道に我が身を捧げる仲間を思いやってのことだろう。誰もがアリーナを救おうと考えているし、良かれと思って行動しながら、しかし報われない。互いの思いや意図が噛み合わず、どんどん致命的にずれていく。
同じ監督の前作『4ヶ月、3週と2日』は、共産国家であった頃のルーマニア特有の事情が物語に大きく関わっていたが、本篇で語られる事件も、実のところ現代のルーマニアが抱えている問題が絡みあって起きたことも察せられる。ドイツで暮らすのに必要な書類の申請もそうだが、アリーナが初めて“発作”を起こした際、救急車を要請しても「人手が足りない」と言って断られ、病院もベッドに空きがないためアリーナを治療の不充分なまま退院させ修道院に託してしまった。この極端な医療体制の不備は、物語の終盤にも影響を及ぼしている。
しかし、ディテールはともかく、本篇の骨格は非常に普遍的なものだ。価値観の異なる者が交流し、それぞれの善意でもって行動するが故に起きる軋轢に、悲劇。もし一方に肩入れすれば、対手を悪意のある者として描いてしまいそうだが、本篇は中心となる女性ふたりに焦点を合わせながらも決して大幅に偏らない――恐らく存在するはずの医療従事者たちの過誤については尺を割いていないが、それはそちらにまで過剰にカメラを向けては収拾がつかなくなるからだろう。アリーナという女性を軸とするふたつの価値観、事情の対立だけでも、充分に複雑で、解きほぐしようがない。
象徴的な場面が、本篇には幾つもある。たとえば修道女が初めてアリーナのことを“悪魔憑き”と呼ぶ場面。それは彼女がアリーナに声をかけられた時の態度に起因しているが、カメラはそのとき、ヴォイキツァのそばにあってその姿を遠く捉えただけで、アリーナが何を話しかけたのか――本当に“悪魔憑き”を連想させるような態度だったのかは判然としない。姿は見えても実像は解らない、ただ修道女が感じた怯えだけがはっきりと伝えられる。終盤、アリーナがふたたび病院に担ぎ込まれた際に医師と修道女が交わす会話や、事件が起きてしまったあと、ヴォイキツァの選ぶ服装にも含意がちらつく。
本篇には、明瞭な解決も、カタルシスをもたらすような決着もない。ただ、当たり前に生きていても、善意で行動しても、抗いようもなく悲劇が起きるのだ、ということを伝える。観終わったあと、果たしてどうすれば誰も傷つかずに済んだのか、痛みを抑えることは出来たのか、自分なら誰に与するのか――いつまでもいつまでも、胸のなかで反響を繰り返す。
関連作品:
『エミリー・ローズ』
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