原題:“Every Which Way But Loose” / 監督:ジェームズ・ファーゴ / 脚本:ジェレミー・ジョー・クロンズバーグ / 製作:ロバート・デイリー / 撮影監督:レックスフォード・メッツ / 美術:イレイン・セイダー / 編集:フェリス・ウェブスター、ジョエル・コックス / 音楽監修:スナッフ・ギャレット / 出演:クリント・イーストウッド、ソンドラ・ロック、ジェフリー・ルイス、ルース・ゴードン、ビル・マッキーニー、ビヴァリー・ダンジェロ、ウォルター・バーンズ、ロイ・ジェンソン、ジョージ・チャンドラー、ジェームズ・マクイーチン、ウィリアム・オコンネル、ジョン・クエイド、ダン・ヴァディス、グレゴリー・ウォルコット、ハンク・ウォーデン / マルパソ・カンパニー製作 / 配給:Warner Bros.
1978年アメリカ作品 / 上映時間:1時間55分 / 日本語字幕:高瀬鎮夫
1978年12月16日日本公開
2010年4月21日映像ソフト日本盤発売 [DVD Video:amazon|Blu-ray Disc:amazon]
[粗筋]
トラック運転手のファイロ・ベドー(クリント・イーストウッド)は、友人のオーヴィル(ジェフリー・ルイス)のマネージメントでストリートファイトに臨み、近隣では負け知らずの腕っ節の持ち主でもある。
ある日、彼は行きつけのパロミノという店で、ゲストとして歌ったカントリー歌手リン・ハルジー・テイラー(ソンドラ・ロック)に一目惚れした。口説かれた彼女もまんざらではなく、すぐさまふたりはベッドを共にする。
腕っ節が強い故に、ベドーはしばしばトラブルを起こした。オーヴィルを交えて3人で入った食堂で、腕に毒グモの刺青をしたバイカー2人組が、ベドーたちの存在を無視してリンを口説こうとすると、ベドーは問答無用で2人を叩きのめし、彼らのバイクを奪ってしまう。それらを売り捌いた金を、地元のデンバーでクラブを開きたい、という夢を語っていたリンに進呈した。
だが翌る日、リンは急に街を発ってしまった。既に彼女に入れあげていたベドーは、愛車にトレーラーハウスを据えると、以前に勝負の報酬として奪ったオランウータンのクライド、そしてオーヴィルを従え、リンのあとを追って旅に出る。
一方、街ではベドーに立て続けに苦汁を飲まされた男たちが、彼に復讐すべく、その痕跡を辿っていた……
[感想]
クリント・イーストウッドという俳優は、決して演技の幅が広いわけではなかった、というより、ぶっちゃけ狭い。西部劇が多かった時代から考えても、パターンは限られている。
だが、恐らくは自身でもそういう自覚があったからこそだろう、出演作は決してパターンには嵌っていないのだ。『ダーティハリー』シリーズだけ観ても、パターン化しているようでいて、ハリーの立ち位置や相棒の人物像など、あちこちで工夫を凝らしている。
人物像はお馴染みのように見え、また邦題も二番煎じのような印象を齎す本篇だが、しかし手触りは従来作のいずれとも違っている。本篇はいわば、日本で言えば『男はつらいよ』のような人情コメディに類する作りなのだ。
イーストウッド演じる主人公ファイロ・ベドーはトラックの運転手であり、同時にストリートファイトで稼いでいる。邦題や、世間に対する売りは後者だが、ここでポイントとなるのはむしろ前者、日雇い労働者のような境遇で、自由気ままな身分であることだ。それ故に、オランウータンを飼い友人の家に居候して、惚れた女を追って突然旅に出る、という奔放な振る舞いに出られる。友人オーヴィルとの関係性や、旅先の人々との関わり方など、やくざな暮らしぶりだが人情は感じさせる。
随所で悶着を起こすものの、しかし彼の描写で焦点が当てられているのは、むしろそうした人との接し方、孤独な境遇なのだ。オーヴィルが旅先で口説き落とした女性エコー(ビヴァリー・ダンジェロ)を帯同するのをあっさりと許し、独り身を憂えるオランウータンのためにパートナーを探してやろうとするあたりに、彼の優しさ、義理堅さが窺える。そして、そうした描写の延長上に、ラストでの意外な行動が置かれているわけだ。その主題は決して、荒くれ者としての生き様を描くことにない。
ベドーを追う悪党たちの描き方も、だから彼らの行動でサスペンスを盛り上げよう、などとは意図していないのだ。イーストウッドのいつも通りの人物像で、人情を滲ませたコメディを成立させるために必要な、いわばピエロなのである。酒場でベドーに伸された警官の行動はあまり笑いになっておらず、やや過剰に感じられるが――しかし彼らを倒したときのベドーの表情は、本篇でイーストウッドが見せるユーモアのなかでいちばん印象的だ――、毒グモ団のみっともなさは秀逸でさえある。いったい彼らは何を根拠にあんなに強がっていられるのかが謎に思えるほどだが、最後にはいっそ可愛く見えてくるほどだ。彼らは果たしてその後、無事に生き延びられるのかどうか。
全篇を彩るのがアメリカにとっての“演歌”と言えるカントリーであることも含め、やはり本篇はイーストウッド版“寅さん”であったように思えてならない。もしそんなふうに認められていれば、毎回女に惚れて街を飛び出し、あちこちでストリートファイトを繰り広げては切ない結末を迎えるベドー=イーストウッド、なんてシリーズが確立されていたのかも知れない、と思うとちょっと面白い。実際に続編も1本だけ作られているが、そこで止まっていることを思うと、恐らくそういう“愛されるマンネリ”にはなっていないのだろうけれど。
何にせよ、本篇は痛快さや派手なアクションを期待して観るべき作品ではない。常に違った角度からの映画作りを試みる、イーストウッドならではの実験的な人情ものなのである。
関連作品:
『ダーティハリー3』
『ガントレット』
『真昼の死闘』
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