原題:“Being There” / 原作&脚本:ジャージ・コジンスキー / 監督:ハル・アシュビー / 製作:アンドリュー・ブラウンズバーグ / 製作総指揮:ジャック・シュワルツマン / 撮影監督:キャレブ・デシャネル / プロダクション・デザイナー:マイケル・ホーラー / 美術監督:ジェームズ・スクップ / 編集:ドン・ジマーマン / キャスティング:リン・スタルマスター / 音楽:ジョニー・マンデル / 出演:ピーター・セラーズ、シャーリー・マクレーン、メルヴィン・ダグラス、ジャック・ウォーデン、リチャード・ダイサート、リチャード・ベースハート、ルース・アタウェイ、デイヴィッド・クレノン、フラン・ブリル / 初公開時配給:松竹 / 映像ソフト発売元:Warner Bros. Home Entertainment
1979年アメリカ作品 / 上映時間:2時間10分 / 日本語字幕:菊地浩司
1981年1月31日日本公開
午前十時の映画祭9(2018/04/13~2019/03/28開催)上映作品
2013年9月4日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon|Blu-ray Disc:amazon]
TOHOシネマズ日本橋にて初見(2019/1/22)
[粗筋]
チャンス(ピーター・セラーズ)の主人が亡くなった。知的障害があり、幼い頃から主人の邸宅を一歩も出ることなく庭師として暮らしていたチャンスだったが、邸宅が処分されることになり、初めて街に出る。
世間を知らず、知己もないチャンスがあてもなく彷徨していると、駐車しようとしていた高級車にぶつけられた。高級車の持ち主であるイヴ・ランド(シャーリー・マクレーン)はチャンスに謝罪し、医師に診せるため車に乗せる。
イヴの夫ベン(メルヴィン・ダグラス)は政財界に影響力を持つ大物だが、再生不良性貧血を患い、自宅に医療設備を用意し医師や看護師を常駐させていた。そのため、病院よりも手っ取り早い、と考え、イヴはチャンスを自宅へと招いた。
イヴやベンに境遇を問われたチャンスは、ぎこちなく説明する。だが、あまりにも世間を知らないチャンスの説明やそのいでたちから、イヴたちは彼を何らかの事情で祖父の庇護を失い、家や仕事を失った上流階級の人間と誤解する。庭仕事しか知識のないチャンスが、何を問われても庭にたとえて答えるさまも、知性ゆえのウィットと解釈してしまった。
チャンスをいたく気に入ったベンはあくる日、スピーチの助言を求めてきた大統領(ジャック・ウォーデン)との会談にチャンスを同席させた。大統領も、見ず知らずの男を介入していることに困惑するが、しかしチャンスの言葉の含蓄に感銘を受けた。そして大統領は自らのスピーチに、イヴが聞き間違えたチャンスの名前、“チャンシー・ガーディナー”を添えて引用するのだった――
[感想]
『ピンク・パンサー』シリーズで知られる、コメディに力を発揮した俳優ピーター・セラーズが自ら原作者との交渉に赴いてまで映画化した作品だという。
その惚れ込みようが頷けるのは、まったくわざとらしさのない庭師チャンスの佇まいだ。知的障害故に、それまでの家を逐われる事態になってもどこか理解していないような振る舞い、しかしそのくせ、見ようによっては何もかも承知の上で泰然としているようにも映る超然たる雰囲気。単に感情の起伏を乏しくしただけではないこの人物の特殊な雰囲気を見事に表現している。
このチャンスという人物は、恐らくは極めて純粋だ。物言いには善意も悪意もなく、仕えていた身ゆえに物腰は丁寧だが、時として危なっかしいほどに率直に振る舞う。一部の人間には、その振る舞いは愚かさから出ている、と思えるが、しかし見ようによっては人として成熟しきり、何事にも頓着していないだけのようにも映る。そんな彼が、時として話題から逸れて持ち出す庭師としての“哲学”が、まるで話題を深く理解し、含蓄豊かにたとえているようにも響く。そのさまは、一見したところユーモラスだが、観ていると興味深くはあるものの、決して笑えない。
本篇は一連の出来事をチャンスという人物のうえに集約しているが、似たような事象はどこでも起きうる。物事や言動を、本来のありよう、実際の意図から離れて、何らかの含意を感じ取ったり、警句として受け取ってしまう。地位も知識もある者ほど、他人の言動や表出した事実にそうした深読みを施して、勝手に納得してしまう。
……何のことはない、こんなふうに賢しらに感想を書いていること、それ自体も含まれてしまうようだ。
そうして何事も自分の関心事に引き寄せて解釈せずにいられない人間というものを、本篇は巧みなユーモアで彩って諷刺している。物語の終幕で示唆されるその後と、超現実的な出来事で、その諧謔をより大きな段階にまで広げてしまっている。
本篇のもととなる小説は、そもそもがニーチェの『ツァラストゥラはかく語りき』を土台にしているという。不勉強ながらそちらに接したことはないので、どの程度がこの有名な哲学書をなぞっているのかは解らないが、私にはこの物語が、哲学と呼ばれるものにもシニカルな眼差しを向けているように思えてならない。
読みようによってはとても多くのものごとに喧嘩を売っている作品だが、観終わっての印象は奇妙な穏やかさがある。エンドロールで、診察台に横たわるチャンスを演じながら、台詞を逸脱して語り続けるピーター・セラーズの様子が誘う和やかな雰囲気も一因なのだろうが、物語がそうした、ひととしての性とも言える振る舞いを咎めていないからだろう。
騙されるな、と声高に叫ぶわけでも、そんな人間の愚かさを嘲笑うものでもない。そういうものなんだよ、とチャンスさながらの穏やかな笑みで受け止めてしまう。これはとても懐の深い作品なのだろう――と解釈してしまう私こそ術中に嵌まっているんだろうけれど。
関連作品:
『博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を・愛する・ようになったか』/『真昼の死闘』/『十二人の怒れる男』/『ペイルライダー』/『道』/『ライトスタッフ』
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