『かけひきは、恋のはじまり』

『かけひきは、恋のはじまり』

原題:“Leatherheads” / 監督:ジョージ・クルーニー / 脚本:ダンカン・ブラントリー、リック・ライリー / 製作:グラント・ヘスロフ、ケイシー・シルヴァー / 製作総指揮:バーバラ・A・ホール、ジェフリー・シルヴァー、ボビー・ニューマイヤー、シドニー・ポラック / 撮影監督:ニュートン・トーマス・サイジェル,ASC / プロダクション・デザイナー:ジム・ビッセル / 編集:スティーヴン・ミリオン,ACE / 衣装:ルイーズ・フログリー / 音楽:ランディ・ニューマン / 出演:ジョージ・クルーニーレニー・ゼルウィガー、ジョン・クラシンスキー、ジョナサン・プライス、ウェイン・デュヴァル、スティーヴン・ルート、ジャック・トンプソン、ピーター・ゲレティ、ランディ・ニューマン / スモークハウス・ピクチャーズ&ケイシー・シルヴァー製作 / 配給:東宝東和

2008年アメリカ作品 / 上映時間:1時間53分 / 日本語字幕:岡田壯平

2008年11月08日日本公開

公式サイト : http://www.kakekoi.com/

日比谷みゆき座にて初見(2008/11/08)



[粗筋]

 禁酒法によりモグリの酒場が氾濫し、多くの新聞が創刊され、大衆文化に変革が起きはじめていた1925年のアメリカ。

 ドッジ・コネリー(ジョージ・クルーニー)の所属するプロ・フットボール・チームであるダルース・ブルドッグスは危機に瀕していた。当時のプロ・フットボールは集客力に乏しく、スポンサーがなかなかつかないために慢性的な金欠状態に陥っている。他のプロチームも同様であり、あちこちのチームが解散していくなか、とうとうオーナーはブルドッグスの解散を告げる。

 チームメイトたちはそれぞれ炭坑や農村、高校などそれぞれの所属していた職場などへ戻っていったが、長年プロとして活動していたドッジに行き場はない。窮した彼は、チームを再生するために、ある策を講じた。金を作り一張羅を仕立てたドッジはサイドカーつきのバイクを駆り、一路シカゴへ赴く。

 彼が訪ねたのは、エージェントのC.C.フレイジャー(ジョナサン・プライス)。彼はいま、カレッジ・リーグで活躍するカーター・“弾丸”・ラザフォード(ジョン・クラシンスキー)の面倒を見ているのだ。カーターはドイツの一個師団をひとりで降伏させた国民的英雄であり、フットボールにおいても派手に活躍している。カレッジ・リーグは極めて盛況だが、プロの窮状を知っているカーターにプロ転向の意識はない。ドッジはそんな彼を説き伏せて、チームに加える腹だった。

 時を同じくして、カーターにすり寄る人物がもうひとり。シカゴ・トリビューン紙において女性ながら活躍を認められていた記者のレクシー・リトルトン(レニー・ゼルウィガー)であった。C.C.に対しては密着取材という説明に留めていたが、実は彼女の職場に、カーターがドイツに駐留していたとき、同じ部隊に所属していたという人物が現れ、世間に流布しているカーターの武勇伝が嘘である、と密告してきており、レクシーはその裏を探るために、経験のみならず色仕掛けの腕をも見込まれて取材を命じられたのである。

 レクシーも同席するなか、ドッジは「フットボールの才能があるなら、それで稼ぐべきだ」とカーターを説得、一試合あたりのギャランティを破格に提示することでフレイジャーをも屈服させ、無事にスター選手のブルドッグス獲得を果たす。突然の決定に、それぞれもとの職場に戻っていたチームメイトたちは呼び戻され、そしてレクシーもまた彼らに同行することとなる。

 ドッジ起死回生の策は奏功し、再結集したチームの第一試合は盛況となったが、そのあいだもレクシーは特ダネ獲得のため、カーターの心を着実に解きほぐす作戦を続けていた……

[感想]

 題名からしてそうだし、予告編やTVCMにおいても、ジョージ・クルーニーレニー・ゼルウィガー主演によるラヴ・コメディとしての側面が強調されているだけに、そのつもりで劇場に足を運ぶ人がほとんどだろう。そして、そこに拘りすぎた人は、実物に触れていささか戸惑いを覚えるかも知れない。

 この作品はどちらかと言えば恋愛よりも、1925年当時のプロ・フットボール業界と社会情勢とを描くことに眼目を置いている。そもそも本篇の原題“Leatherheads”とは、当時のフットボール選手が現在のようなヘッドギアではなく、革製の帽子を被っていたことからそう呼ばれていたことにちなんでおり、そこからも明白だろう。

 ベテラン選手であるドッジ・コネリーと新聞記者レクシー・リトルトンのロマンスにしても、どちらかが積極的にアプローチして発生しているわけではない。いちおうドッジは初対面のレクシーを口説くような行動に出ているが、彼の性格を考えれば美人に対する社交辞令程度の行為だろう。このふたりのロマンスは、ドッジが自らの所属するチーム存続のためにカーターというスター選手を巡って立ち回り、一方でレクシーがカーターのスキャンダルを探るために彼に張りついている、という状況が発展した結果として醸成されている。駆け引きを仕掛けるのはドッジとレクシーのあいだではなく、ドッジがフットボール業界の人々に対してであり、レクシーが情報を探り出したいカーターに対して、なのだ。そういう捉え方をすると邦題も正しいのだが、敢えて誤解をも狙ったものだろう。

 本篇はあくまで、そういう形で当時のフットボール業界と背後にある社会情勢を採り上げ、深刻に陥ることなく洒脱に、コメディ・タッチで綴ることに主眼を置いているのだ。プロローグとして描かれるプロ・フットボールの試合光景は、やたら暴力的だしルールは雑だし、チームが貧乏であるためにボールが一個しかなく、それを策略で隠されると、“ホームチームがボールを提供できないなら負け”という訳の解らないルールを突きつけられる、といういい加減ぶりで、当事者としてはやっていられないだろうが、お話としては大変に愉しい。変化しつつある娯楽の形態などを採り上げた部分では、レクシーと知人の記者が試合場の記者室にて汚い言葉で話していると、当時浸透しはじめたばかりのラジオ中継の担当者が「それは放送禁止用語です」とマイクを覆って遮る、というひと幕があったりする。移動のために頻繁に用いられる寝台列車では、資金不足で洗濯もろくに出来ない選手たちがユニフォームを列車の窓から吊して乾かしていたり、かと思うとやはり金のないドッジが空いている寝台と思って潜んでみるとそれがよりによってレクシーの個室だった……といった具合に、現代では考えにくいシチュエーションを随所で提示して、コメディに仕立てている。

 その中で、ことドッジとレクシーのやり取りが機知とユーモアに富んでおり、最大の見せ場となっていることもまた事実である。初対面からしてお互いに高度なはぐらかしを繰り返し、前述の寝台ではち合わせた場面では、同じ質問を交互に行う、といった趣向を繰り出してくる。それぞれの事情から失意を抱き、心を通わせるくだりなどは、そうした機知が途切れているからこそ情感を豊かにしている。往年のユーモアに富んだロマンス映画の雰囲気をうまく再現することで、ユーモアそれ自体をロマンスを活かす素材にしている点でもただ事ではない。

 そして、そうして積み上げたものを駆使した終盤での駆け引きの巧さがまた出色なのである。カーターの出征中の出来事に関する醜聞は混乱のすえ、レクシーを追い詰めることになるのだが、それを救い出すためにドッジが用いた手段も、またクライマックスにおける試合中の作戦も、作中で提示した要素を駆使して、ユーモラスながら膝を打つほどに華麗だ。

 加えて、戦争やスキャンダル、チームの財政危機に三角関係など憂鬱な要素を無数に盛り込みながら、本篇にはまったく暗さがなく、異様なほどに清々しい。途中でもぐり酒場にて殴り合いの喧嘩を演じるフットボール選手たちと軍人たちは最終的に意気投合して一緒に歌を歌い始めるし、金にうるさいフレイジャーも、ある部分ではとても潔く、憎めない人物に描かれている。カーターの醜聞にさえ綺麗な結末が設けられているあたりは、もう見事としか言いようがない。

 人物造型、伏線、背景の活かし方に至るまで申し分のないシナリオを、セットやCGを駆使して当時の風物を丁寧に再現し、派手に動かないカメラワークと意識的にセピアがかった映像で雰囲気充分に捉えた映像、そして急ぎすぎず、けれどやたらのんびりともしていないテンポで小気味良くまとめた演出もいい仕事をしている。

 鑑賞前は、前作『グッドナイト&グッドラック』と較べていまいち、といった感じの評価を目にしたため、あくまでジョージ・クルーニー作品として拾っておきたい、という意識のみで足を運んだのだが、いまいちどころか、作品の雰囲気は違えど充分に骨のある、良質の映画に仕上がっている、と感じた。本当に洒脱なコメディ映画を観たい、という方には心からお薦めしたい。

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