『南極料理人』

『南極料理人』

原作:西村淳『面白南極料理人』(新潮文庫春風社・刊) / 監督・脚本:沖田修一 / プロデューサー:西ヶ谷寿一 / 撮影:芦澤明子 / 照明:豊見山明長 / VE:鏡原圭吾 / 美術:安宅紀史 / 装飾:寺尾淳 / 衣装:小林身和子 / VFXスーパーヴァイザー:小田一生 / 編集:佐藤崇 / 音響効果:佐藤祥子 / 音楽:阿部義晴 / 主題歌:ユニコーン『サラウンド』 / 出演:堺雅人生瀬勝久、きたろう、高良健吾豊原功補西田尚美古舘寛治黒田大輔、小浜正寛、小野花梨、小出沙織、宇梶剛士嶋田久作 / 企画・プロダクション:パレード / 配給:東京テアトル

2009年日本作品 / 上映時間:2時間5分

2009年8月8日公開

公式サイト : http://nankyoku-ryori.com/

TOHOシネマズ西新井にて初見(2009/08/25)



[粗筋]

 1997年、僕こと西村淳(堺雅人)は南極にいた。南極観測隊の一員として、昭和基地から1000キロ隔たり、富士山よりも標高の高い山に位置するドームふじ基地に駐留している。

 このときの観測隊のメンバーは8名。雪氷学者の本さん(生瀬勝久)、大学院から派遣された雪氷サポートの兄やん(高良健吾)、気象学者のタイチョー(きたろう)、大気学者の平さん(小浜正寛)、通信社から派遣された通信担当の盆(黒田大輔)、自動車会社から派遣の車両担当・主任(古館寛治)、医療担当のドクター(豊原功補)。そして僕は、海上保安庁所属で、この極地で調理を担当するために派遣された。

 南極でも特に高地にあるこの基地では、食事も平地と同じようにはいかない。何せあまりに寒く標高が高いため、アザラシもペンギンも周囲に棲息しておらず、ウイルスさえ生存できない。装備もなしにドアを開けっ放しにしようものならものの数分で死に至るほどの寒さで、かつ食糧の調達は往路で済ませているため、すべての食糧は冷凍状態、屋外に積み上げられている。当然大半が缶詰か冷凍食材、コンニャクなど凍って駄目になる類の食材ははじめから持ち込んでいない。

 標高が高いために沸点も低く、お湯は85度で沸騰する。普通に麺類を茹でても芯が残るため、調理の段階から細かな工夫が必要だ。限られた食材をやりくりし、個人の誕生日やミッドウィンター祭には華やかに趣向を凝らしたりして、飽きないように毎日変化をつけるのは存外大変なのだが、飢えた野郎たちはそんなことはあまり気に留めていないようだ。

 任期は約1年強。通勤電車など走っているはずもなく、日本までの電話代は740円/分、行くことも戻ることも出来ない極地での暮らしは、退屈と危険と素っ頓狂が背中合わせの毎日だった……

[感想]

 本篇は、実際に南極観測隊にて調理を担当した人物が自らの体験を綴ったエッセイに基づいているという。今回は原作にあたらずに鑑賞したため、実際にどのエピソードが原作に従っているのか、は確認していないのだが、どうやら人物の肉付けや多くのエピソードが原作に倣っているようだ。

 そのためか、本篇には明確なストーリーというものがない。いちおう終盤にはちょっとした事件が起こるのだが、その瞬間に向かって盛り上げていくわけでもなく、その出来事によって何かが大幅に変化する、というものでもない。恐らくは原作に綴られているエピソードの中から抽出した、南極という特殊な環境ならではのユニークな暮らしぶりを拾っていくだけで進めているだけだ。

 しかし、これが妙に面白い。粗筋でも記したような、特殊な境遇で生活していくための工夫や苦労が、そもそも私たちの日常生活と違いすぎていて、それ自体が笑いを誘うのもあるのだが、この極限状態における登場人物たちの言動がまたいちいち観る者を擽るのである。ずーっと居続けてもいい、と言い放つドクターは、この極地で体を鍛えればいい成績が出せそうな気がする、とトライアスロン出場を目標にトレーニングをしているし、身体がラーメンで出来ているようなタイチョーは夜中に備蓄されているラーメンを勝手に茹でて「芯が残るんだよ」と嘆く。車輌係の主任が車から戻ってこないので、西村が握り飯を運んでいくと、愚痴をこぼすついでに屁をこくものだから、西村は極寒の中ドアを開けっ放しにして決死の抗議を試みる。細かなシチュエーションを列挙していったら、本当に枚挙に暇がない。

 こういう極限状況に置かれた人々を、絶妙な空気感でもって表現している。このあたり、俳優の粒が揃っているのが奏功した。極地での仕事に馴染んでいる本さんとタイチョーを演じた生瀬勝久ときたろうは貫禄のコメディ俳優ぶりを示しているし、ドクターを演じた豊原功補の異様なまでの順応っぷりも素晴らしい。他の面々は多かれ少なかれこの究極の左遷に不満を抱いているが、各個それぞれの折り合いの付け方で細かく笑いを拾っていく。こと、ずっと冷静を保ち、日本に残した恋人との電話を楽しみに日々を過ごしている最若年の兄やんが終盤に見せる爆発っぷりは、気の毒だが可笑しい。

 だが本篇の勘所は、何と言っても主人公の西村を演じた堺雅人である。極めて色気のある笑顔を持った俳優だが、彼の凄さは、この笑顔だけでほとんどの感情も雰囲気も表現してしまうことだ。2008年に好評を博した『アフタースクール』では、その善人とも悪人とも判断のつかない笑顔で独特の存在感を発揮していたが、本篇では同じような笑顔で困惑も憤りも喜びも同様に表現する、という離れ業を繰り出し、基本的に感情を顕わにしない人物像ながら、その気持ちが伝わるという繊細な演技を披露している。どちらかというと奇人だらけの観測隊のなかでいちばんの常識人と思われる人物像だが、にも拘わらず言動にユーモアが滲むのは彼ならではだし、他の役者では終盤の、数少ない感情を露呈する場面での説得力は、そこまでの演技の積み重ねがあってこそ光っている。

 基本的に南極ならではの、妙な日常が綴られていくだけだが、そこに細かな伏線を鏤め、締め括りでちょっとしたドラマが構築されるように工夫しており、いちおうのカタルシスを齎している。誰ひとり格別な能力など持っていないが、それぞれに個性的な素顔がありドラマがある、ということをくっきりと示すこのラストの成り行きは絶妙である。この極地派遣が理由でかなり不幸な経緯を辿った人物もいるが、そこにも思わぬところに伏線を設けて、救いを与えているのだから、本当に抜かりがない。

 観終わったところで何ら教訓が齎されるわけではないし、当の主人公にもこれといった変化が起こるわけでもない。何やら誤魔化されたような印象があるが、にもかかわらず後味はとても爽やかだ。あれこれ論じるよりも、ただ観て感じて、極寒と暖かさを味わうのが正しい見方だろう。

 最後にひとつ。実はこの映画、題名から普通に想像するある“ひと言”がまったくと言っていいほど使われない。少なくとも私の記憶する限り、その“ひと言”は最後の最後でいちどしか出て来ていないはずだ。このタイミングで、あの人に言わせるあたりこそ、本篇のウイットの最たるものだと思う。

関連作品:

アフタースクール

皇帝ペンギン

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