原作:梁石日(幻冬舎文庫・刊) / 監督・脚本:阪本順治 / 製作:気賀純夫、大里洋吉 / プロデューサー:椎井友紀子 / エグゼクティヴ・プロデューサー:遠谷信幸 / 撮影:笠松則通 / 美術:原田満生 / 照明:杉本崇 / 編集:蛭田智子 / 録音:志満順一 / 音楽:岩代太郎 / 助監督:小野寺昭洋 / 主題歌:桑田佳祐『東京現代奇譚』 / 出演:江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡、プラパドン・スワンバーン、プライマー・ラッチャタ、豊原功補、鈴木砂羽、塩見三省、佐藤浩市 / セディックインターナショナル制作 / 配給:ゴー・シネマ
2008年日本作品 / 上映時間:2時間18分 / PG-12
2008年8月2日日本公開
公式サイト : http://www.yami-kodomo.jp/
ユナイテッド・シネマ豊洲にて初見(2009/02/16) ※2008年心に残った映画アンコール上映
[粗筋]
日本の新聞社のタイ支局に勤める南部浩行(江口洋介)は、上司の土方(塩見三省)からの要請で、臓器売買の闇ルートについての調査を始める。だが、最初に見つけ出した情報提供者の口から聞かされた事実に、彼は愕然とした――それは、脳死患者の臓器を横流しする、というレベルの話ではなく、臓器は生きた子供の身体から抜き取られるというのである。
組織の報復を恐れて口を閉ざす情報提供者に業を煮やした南部は、現地の社会福祉センターに接触を図るが、そこでも芳しい情報は持ち合わせておらず、逆に生きたまま臓器を抜かれる、という事実に驚愕する先方から、情報の共有を請われるほどだった。
南部が、ちかぢかに日本人の少年に移植を行うとみられる医師に接触するなど懸命の取材を続ける一方で、福祉センターには新たに不穏な情報が齎されていた。彼らが兼ねてから面倒を見ていた、スラム街の少女アランヤーの筆跡による置き手紙が発見され、それによるとアランヤーは組織に売り飛ばされ、売春を強要されているのだという。同室の子供がひとり病を患い、ゴミと一緒に捨てられている、という事実まで、そこには記されていた。
最近福祉センターで働き始めたばかりの日本人女性・音羽恵子(宮崎あおい)は警察に届け出ることを進言するが、かつて組織に売り飛ばされた経験を持つ同僚からは嘲笑され、実際あの手紙だけでは捜査は出来ない、と門前払いを食わされた。やむなく福祉センターは自らアランヤーの救出を試みるが、迂闊な行動はほかに囚われた子供たちの死にも繋がりかねず、手を出せない。
けっきょく、福祉センターは南部の協力を仰ぐが、結果として浮き彫りになるのは、現在窮地にある子供を救いたいという福祉センターと、ひとりを救っても残るルートそのものを暴こうとするマスメディアとの温度差と――そして、違法と知りつつも闇のルートに依存せざるを得ない、医療の現実であった……
[感想]
衝撃作――と呼んでいいだろうが、しかしここで語られている“現実”自体は、私の観点から言わせてもらえば、決して意外なものではない。アジアの現実や医療の実態を思い合わせれば想像がつき、本篇で語られているものもその範疇に収まっている。
だが本篇の場合、その想像可能だが悽愴を極める出来事を、可能な限り容赦なく描き出した点にこそ意義がある。どれほど声高に訴えかけられようと、劣悪な環境に育った子供たちが辿るかも知れない過酷な運命を、思い描くことの出来ない人も少なくないだろう。そこに、目を背けたくなるほどに生々しく突きつけているからこそ、本篇は重い。
物語としての結構は、率直に言えば荒い作品である。随所で交わりはするものの、江口洋介演じる新聞記者が語る事件と、宮崎あおい演じるボランティア・スタッフの感じる事件とは完全に合流することはなく、最終的に別のところに着地する。その中で、双方の出来事にいちばん重要な役割を果たす終盤のある出来事については、何故あんな行動を起こす必要があったのか、その中で脇役が示した言動にどんな背景と意味があったのか、あまりに説明不足かつ唐突で、劇的であるがゆえに余計に物語としての仕組みを破綻させてしまっているきらいがある。
だが本篇において重要なのは、エピソードの積み重ねにより、人身売買の闇を細部まで浮き彫りにしていることだ。売り飛ばされ大人達の玩具にされ、歯向かわないように鞭打たれ、患って恢復の見込みがなければ廃棄される。懸命に抵抗を試みても報われる可能性はゼロに等しく、稀に手厚く扱われているように見えても、その先にはより過酷な出来事が待ち構えている。その様はまるで家畜だ。
そして、そうした現実を前にしても、ろくに打つ手を持たない人々がそこにいる。福祉センターの人々は警察さえあてに出来ず、自らの手で救い出そうにも相手の冷酷さに退いた手段を選ばざるを得ない。1つのルートを潰したところで別のもので補われることを知っているマスメディアは、ボランティアの女性に罵られながらも、ただその瞬間を見届けるしかない。終盤、犠牲となった子供を葬る家族の姿に漂う悲愴感は激烈だ。
挙げ句の果てに、本篇は最後にもう一つ、正視に耐えない真実を突きつける。あそこだけは極めて個人的な悪夢だ、と簡単にはねつけられそうでいて、しかし実際はそう単純ではない。あの場面で据えられた鏡は、本気で向かい合った瞬間、登場人物のみならず、観る者の心にある欺瞞を暴き立てる。あれが他人事に感じられるうちは、まだ本質に触れていない、とさえ言えるかも知れない。
あまりに重く、打ちのめされ目を背けたくなる。だがそれでも、本篇は向かい合う価値のある作品である。物語の構成に破綻はあるが、ここで描かれているのは、決して絵空事ではない。犠牲者の多くは子供たちだが、すべての大人はかつて子供だったわけであり――観れば解ることだが、その悲劇のあとに更なる悲劇を積み重ねた、闇に棲む大人達もこの作品には描かれている。更に連鎖させないためには、想像する知恵が必要だ。本篇は、そのために必要な、極めて苦い滋養になりうる。
……それにしても、今年に入っていったい何度、佐藤浩市を見たんだろう……?
コメント
ずっと見たいと思っていた映画でしたが、ようやく近くの映画館で上映され、見てまいりました。眠れなくなりました。悲しい、とか重い、とかいうものを通り越した映画ですね。映画自体は大ヒットで一般の人のコメントもサイト上にたくさん出ておりますが、しかしどれを読んでもピンとは来ない、と言うのかそれこそ結局は自分も含めて「絵空事」のようにしかとらえられていないようなところがあり・・。どうしようもないもどかしさにとらわれています。
音羽の行為はたとえ自己満足からだったにしても、自己満足で子供を傷つけたり、命を奪ったりする人間、見て見ぬふりをする人間に比べれば、はるかに尊い。と分かっていても何か純粋に受け入れられない自分がいて、その受け入れられなさの中に人間の心の闇があるような気もして・・。
女衒の男が逮捕された時の薄笑い、そして最期の鏡の部分が本当に怖く、結局大人も皆「闇」の世界の住人なのだ、と感じました。しかし・・言葉をいろいろ見つけても、自分の中でどう処理すればいいのかいまだにわからないでいます。
見た後にこんな気持ちにさせられた映画は生まれて初めてでした。
・・・しかし、佐藤浩市、本当にスクリーン上の金太郎飴ですね!
ネットサーフィン中に行き当たり、思わず書いてしまいました・・。
先日DVDを借りてきて観ました。
あまりに衝撃が大きく、しばらくしかめっ面が直りませんでした。
この映画はとても高い価値がある作品だと思います。私は「売春」という言葉がある限り、この映画のような、表面上にはわからない「闇」があるものだと思っていましたが、実際に映画で観てみると、私の想像していた「闇」を遥かに凌駕していました。
まだ小学生ぐらいの子供が実際に虐待を受けてるかのような、悲痛な叫びをあげているシーンや、外国人男性に性的行為を強要されいるシーンなど、非常に生々しい表現があり思わず目を背けたくなりました。でも最後まで直視しました。それは私利私欲のために動く汚い大人の姿であり、ややもすれば感じることができない自分の反面を描写しているかもしれないと思ったからです。この映画を観てる最中は終始「自分はどうなんだ?自らの欲の為に大きな何かを犠牲にしたことはないか?」と自分に問いかけていました。
なかなか自分を深く顧みることは無いと思います。そんな中で久しぶりそんなことを考えられる「いい映画」です。
因みに、私の周りにはこの映画の存在を知る人が極めて少ないです。これは問題だと思います。一応は勧めましたが「俺には観れない」という人が多かったです。
しかし私は単にこの映画のことを知ってほしいとか観て欲しいだけでなく、この映画を観ることによって世の中にある子供売春や人身売買、動物実験問題など、倫理的な問題にも目を向ける努力が必要だと思うのです。なのでこ映画が世の人々の社会問題を考えるキッカケになってほしいと思ってます。