原題:“My Sister’s Keeper” / 原作:ジョディ・ピコー(ハヤカワ文庫・刊) / 監督:ニック・カサヴェテス / 脚本:ジェレミー・レヴェン、ニック・カサヴェテス / 製作:マーク・ジョンソン、チャック・パチェコ、スコット・L・ゴールドマン / 製作総指揮:ダイアナ・ポコーニイ、スティーヴン・ファースト、メンデル・トロッパー、トビー・エメリッヒ、メリデス・フィン、マーク・カウフマン / 撮影監督:キャレブ・デシャネル,A.S.C. / プロダクション・デザイナー:ジョン・ハットマン / 編集:アラン・ハイム,A.C.E.、ジム・フリン / 衣装:シェイ・カンリフ / キャスティング:マシュー・バリー、ナンシー・グリーン=キーズ / 音楽:アーロン・ジグマン / 出演:キャメロン・ディアス、アビゲイル・ブレスリン、アレック・ボールドウィン、ジェイソン・パトリック、ソフィア・ヴァジリーヴァ、ジョーン・キューザック、トーマス・デッカー、ヘザー・ウォールクィスト、エヴァン・エリングソン、デヴィッド・ソーントン、ブレンダン・ベイリー、エミリー・デシャネル、マット・バリー、アニー・ウッド、マーク・M・ジョンソン / 配給:GAGA
2009年アメリカ作品 / 上映時間:1時間50分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2009年10月9日日本公開
公式サイト : http://watashino.gyao.jp/
TOHOシネマズ西新井にて初見(2009/10/30)
[粗筋]
11歳の少女、アナ・フィッツジェラルド(アビゲイル・ブレスリン)の行動が、周囲に大きな波乱をもたらした。幼少の頃から急性前骨髄球性白血病を患い、先頃腎不全を起こした姉ケイト(ソフィア・ヴァジリーヴァ)への臓器提供を拒み、TVCMを打っている著名な弁護士キャンベル・アレグザンダー(アレック・ボールドウィン)に依頼して、両親を訴えたのだ。
そもそもアナは、ケイトの命を救うために“作られた”子供だった。病状が進行するに従ってケイトは様々な移植手術が必要になると考えられたが、父ブライアン(ジェイソン・パトリック)も母サラ(キャメロン・ディアス)も適合せず、ドナーが見つかるのを待つしかない。だが、意図して適合性の高い子供を作れば、話は別だった。骨髄、幹細胞はむろん、出産の時に出る臍帯血も有効に活用できる。
こうして生まれたアナは、小さい頃から骨髄穿刺などのために措置入院を余儀なくされ、苦痛を味わってきた。彼女が払えるのは僅か700ドルだったが、キャンベル弁護士はアナに理解を示し、弁護を引き受ける。
令状を受け取ったサラは愕然とした。その晩、サラに問い詰められたアナは、腎臓がひとつになった場合普通に暮らせなくなると言い、「もう自分の身体は自分の自由にする」と訴える。耳を傾けるブライアンは、虚を突かれる想いがした。
キャンベルは移植についてのみ、親の意思に左右されることがなくなるよう、親権の一部停止を求める訴えを起こし、ケイトが患う前は弁護士として働いていたサラは、審理停止を求める。この難しい裁判を担当するのは、デ・サルヴォ判事(ジョーン・キューザック)――奇しくも半年前にひとり娘を不慮の事故で失い、ショックで休職していた人物であった。
それぞれに複雑な思惑を抱えながら、親対娘の裁判が始まる。そうしているあいだにも、ケイトの身体は刻一刻と衰弱していた……
[感想]
近年、時系列を錯綜させて描く手法を採用した作品が増えたように思う。本来シンプルな筋書きに謎をもたらし、観る側を惹きつけるこの手法は、脚本家のギジェルモ・アリアガが特に自在に扱っているが、決して楽な描き方ではない。書き方によっては整合性を乱すし、時系列順に綴っていればただのミスで済むものが、観る側に違和感を与える致命的な失敗になってしまう場合もある。
実は本篇が、その失敗に近いことをしてしまっている。本篇の場合は、基本的に時間順に描写に添って物語を追いながら、随所で視点を切り替え、その人物が回想をしている、という体裁で過去の出来事を描く。そこまでは解り易いのだが、描かれる過去が全体でどのあたりの出来事なのか、観終わってからでも再配置しづらい。アナやケイトが幼い頃なら、出ている役者が違うことで察しがつくが、現在を演じる俳優たちが出ているパートは特に配置が解りづらくなっている。
とりわけ、いちばんの見せ場であるはずの、見た目を気にして外出をためらうケイトを説得するために母親サラが髪を剃る、という、演じているキャメロン・ディアスがこれまでラヴ・コメディ中心に出演していたことを思うと尚更に衝撃的なシーンが、どこに配置されるべき場面なのか解りにくく、そのせいで効果を削いでいるのが残念だ。シーンそのものの印象は強くても、その置き場所がない、という違和感は、好印象をどうしても割り引いてしまうのである。
だが、他の部分についてはほぼ理想的なドラマ作りとなっている。前後関係が掴みにくい、という意味ではネックだが、随所で時系列を相前後し、その時点の視点人物が抱く想い、抱えている秘密を順次示していく描き方は、アナが両親を訴えた真意、それについて多くを語ろうとしない周囲の人々の心情を、謎めいて見せる。クライマックスでアナの真意が明かされると、ちりばめられた描写の背後に秘められた想いが一気に押し寄せてくる。この手管は見事、の一言に尽きる。
誰もが誰かを思いやり、自分にとって正しいと思う行動をしているのに、溝を作ってしまうもどかしさ、ままならない悲しみを、決して飾ることなく率直に描いた筆致も素晴らしい。重い病を患っているケイト本人は無論のこと、仕事も家族の穏やかな暮らしも犠牲にして我が娘を救おうとする母サラ、失語症を起こしながらも命の危ういケイトが優先されて放浪癖のついたジョシュ(エヴァン・エリングソン)、そして物語の中心にいるアナ。単純なお涙頂戴だけで話を組み立てていない、実感的な言動が、だからこそ重く沁みてくる。
特に個人的に感心したのは、いちばん最後の病室のシーン序盤と、裁判の準備をしているサラに、彼女を手伝う妹ケリー(ヘザー・ウォールクィスト)が語りかける場面だ。病室のシークエンスは結末を明かしてしまうことになるので詳述は避けるが、後者のケリーの台詞は本篇の精神を最も簡潔に象徴しているので、触れておきたい。
サラはケイトの命を救わんとして、懸命に判例に当たっている。共に資料に目を通しながら、ケリーはこう言う。自分は妹だから、最後まであなたの味方をする。あなたは最後まで諦めない母親。そういう母親であろうと姉さんは必死で闘っている。でも、いつかはやめなきゃいけないのよ。
人間の命が有限である以上、覆せない真理だ。だが下手なお涙頂戴のドラマでは、ここを無視したりひっくり返したりしがちである。それを、決して乱暴ではなく、優しく差し出してくる。奇跡は起きないが、それに匹敵するくらいに厚みのある心情描写が沁みてくる、志の高い作品である。
練達のカメラワークによる映像も美しく、多くのシーンが目に焼きつくことだろう。冒頭に述べた欠点があるために大傑作とは呼べないが、間違いなく心に響き、記憶に残る1本であると思う。
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