原題:“The Fourth Kind” / 監督・脚本:オラトゥンデ・オスンサンミ / 原案:オラトゥンデ・オスンサンミ、テリー・リー・ロビンス / 製作:ポール・ブルックス、ジョー・カーナハン、テリー・リー・ロビンス / 製作総指揮:スコット・ニーマイヤー、ノーム・ウェイト、イオアナ・A・ミラー / 共同製作総指揮:デイヴィッド・パプケウィッツ、ヨン・ビャーニ・グドムンドソン、ウィンカ・リアン・ジャレット / 撮影監督:ロレンツォ・セナトーレ / プロダクション・デザイナー:カルロス・ダ・シルヴァ / 編集:ポール・J・カヴィントン / 衣装:ジョネッタ・ブーン / 音楽:アトリ・オーヴァーソン / 出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ、ウィル・パットン、イライアス・コーティーズ、ハキーム・ケイ=カジーム、コーリイ・ジョンソン、エンゾ・シレンティ / シャンバラ・ピクチャーズ/デッド・クロウ・ピクチャーズ製作 / 配給:Warner Bros.
2009年アメリカ作品 / 上映時間:1時間39分 / 日本語字幕:小泉恒子
2009年12月18日日本公開
公式サイト : http://www.the4thkind.jp/
TOHOシネマズ西新井にて初見(2009/12/18)
[粗筋]
心理学者アビゲイル・エミリー・テイラー博士(本人/再現映像:ミラ・ジョヴォヴィッチ)にとって、2000年8月が事件の始まりだった。その日、いつものように愛しあい、共にベッドで安らかに過ごしていたはずの夫は、突如侵入した何者かによって殺害された――衝撃のあまり消えた記憶を再現するべく、友人の心理学者エイブル・キャンポス博士(イライアス・コーティーズ)の協力を得て行った催眠療法により、アビゲイルが語ったのは、そんな一部始終だった。
警察は怠慢な捜査を行っている、或いは大きな見落としをしている――そんな疑念を抱きつつも、アビゲイルはアラスカ州ノームに帰還する。彼女と夫ウィルはこの地に蔓延する不眠症を研究するため、拠点をここに構えていたのだ。夫の無念を晴らすためにも、研究を続ける必要がある。
患者との面談を再開したアビゲイルは、最近になって、まったく同じ“症状”を訴える人間が複数現れたことに気づく。いずれも、閉めきった部屋の中にフクロウが侵入し、じっと自分を見つめていた、と語っているのだ。近隣でフクロウを目にした記憶のほとんどないはずの彼らが一様に、しかも連日のように目撃しているという。
アビゲイルは本人の了解を得て、患者のひとりトミーに催眠療法を施すことにした。人為的に眠りに落とし、意識を無防備な状態にしたうえで、覚醒時は何らかの理由で再現が阻まれていた記憶を呼び起こすのである。トミーが“フクロウ”を目撃したのはつい前日の夜。アビゲイルは彼の記憶を昨晩へと誘導する。
だが、その途端にトミーは著しい動揺と恐怖とを示した。暴れる寸前だった彼から催眠を解き、宥めたうえで記憶を確かめようとしたアビゲイルだったが、トミーは次の面会のときにして欲しい、今日は家に帰りたい、と訴える。
その日の夜、アビゲイルは地元警察の保安官オーガスト(ウィル・パットン)からの電話で起こされる。錯乱したトミーが家族相手に発砲し、アビゲイルを連れてくるよう要求したのだ。現場を訪れたアビゲイルに、トミーは「あんなものを思い出したくなかった」と叫び、奇妙な単語を口走って、その意味をアビゲイルに問いかける。だが、アビゲイルが応えるよりも先に、トミーは家族全員を撃ち殺し、最後は自らの顎に銃弾を撃ち込んだ――
[感想]
本篇を鑑賞した人間の多くがまず疑問を抱くのは、ここで描かれた出来事が本当に事実なのか否か、という点だろう。
作中で挿入される、実際に撮影されたという映像の数々は、まさに衝撃的というほかない代物だ。本当に、現実にこんなことがあったのかどうか疑わしく思える。昨今の映像加工技術があれば、この程度は容易に再現できるだろう。
だが、そう簡単に推測できるような虚偽を、用意するだろうか? また、異様な出来事を捉えた映像群はいずれも、撮影の状況が素人っぽく、状況の推移に生々しさが感じられる。そうしたことを考え合わせると、少なくとも捉えられた映像については真実ではないのか、と思いたくなる。
真偽の狭間が明確ではない、そういう感覚を抱いた時点で、観る側は製作者の術中に嵌っている、と言っていい。まさに本篇は、観る者の胸になかなか抜くことの出来ない疑念の棘を突き刺すことに全精力を費やしている、と捉えられるのだ。
作中の事件がすべて事実だった、と仮定したとしよう。無論、出来事の解釈自体は人によって異なるだろうが、それでも単純に映像情報や、本人に対する聴取だけでは、ほとんどの人は胡乱なもの、単なるオカルトとして軽く捉える可能性はある。だが本篇は、映像や音声として記録に留められたものと並行して、体験者本人の証言に基づいて、経緯を再現したドラマを描き、情報やその時々に体験者が覚えた感情を伝えることで、観客に共有させる。その時々の行動をどう評価するかもまた個人によって差はあるだろうが、そういう感情、行動を起こさせた事態に、多かれ少なかれ戦慄は覚えるはずだ。
逆に、一切合切がフィクションであったと仮定しよう。その場合、記録映像・音声とも再現ドラマとも異なる、映画の中で“現実”として扱うことの出来るパートを設けていることが、効果的に働いている。まず冒頭で主人公を演じるミラ・ジョヴォヴィッチが自分自身として登場し、作品の趣旨、一連の出来事が“事実である”と宣言し、彼女の登場する場面が再現映像であることを保証する。その後、ドラマの随所でアビゲイル・エミリー・テイラー博士本人に対するインタビュー映像を挟みこむことで、繰り返しその“現実”を再確認させる。こうすることで、仮に作中の記録映像や再現ドラマに多少疑念を抱いたとしても、それを確実に“虚構”の内側に閉じ込めてしまう。その外側にもまだ疑いは残るが、確実に和らげられているのだ。
いずれの場合も、真実味を齎し、作品を戦慄すべきものに仕立てているのは、映像に記録された怪奇現象の数々よりも、最終的な周囲の反応だ。詳述は避けるが、語り手の経験以上、この状況こそ最も恐るべき部分であり、従来のオカルトを取り扱った映画、ホラー映画とは異なるこの部分こそ本篇の異様なリアリティを強固なものにしている。
どこまで計算ずくなのかも、判断は容易ではない。私自身、未だに作中で語られる出来事の真偽について確信を抱けずにいる。しかし、事実であれ虚構であれ、本篇は非常に“恐ろしい”映画であるのは確かだ。
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