『サバイバル・オブ・ザ・デッド』

『サバイバル・オブ・ザ・デッド』

原題:“Survival of the Dead” / 監督&脚本:ジョージ・A・ロメロ / 製作:ポーラ・デヴォンシャイア / 製作総指揮:D・J・カーソン、マイケル・ドハティ、ダン・ファイアマン、ピーター・グルンウォルド、アラ・カッツ、アート・スピーゲル / 撮影監督:アダム・スウィカ / プロダクション・デザイナー:アーヴ・グレイウォル / 編集:マイケル・ドハティ / 衣装:アレックス・カヴァナー / 視覚効果監修:コリン・デイヴィス / 特殊効果メイクアップ:フランソワ・ダジュネ / 特殊効果メイクアップ・プロデューサー:グレッグ・ニコテロ / 音楽:ロバート・カーリ / 出演:アラン・ヴァン・スプラング、ケネス・ウェルシュ、キャスリーン・マンロー、デヴォン・ボスティック、リチャード・フィッツパトリック、アシーナ・カーカニス、ステファーノ・ディマッテオ、ジョリス・ジャースキー、エリック・ウールフ、ジュリアン・リッチングス、ウェイン・ロブソン / 配給:Presidio

2009年アメリカ、カナダ合作作品 / 上映時間:1時間30分 / 日本語字幕:川又勝利 / R-18+

2010年6月12日日本公開

公式サイト : http://www.survivalofthedead.jp/

ブロードメディア試写室にて初見(2010/06/08) ※試写会



[粗筋]

 世界はゾンビに侵蝕された。もともと人々を守るべき軍人でありながら、部下と共に略奪行為を繰り返してどうにか生き延びていたサージ(アラン・ヴァン・スプラング)は、道中出逢った青年(デヴォン・ボスティック)から、ネットで流布している広告映像を見せられた。壮年の男がカメラに向かって悠然と語るのは、ゾンビの襲来から守られている平穏な島の存在。部下もサージ自身もその情報を訝り、罠の可能性も疑ったが、他に行く宛もなかったために、彼らは新たに得た車を、デラウェアの港に向ける。

 到着したクロケットたちを待っていたのは、案の定、手荒い歓迎であった。しかし、折しも押し寄せてきたゾンビの群れを利用して応戦すると、サージたちはフェリーを掠奪し、沖合の島を目指した。例の広告映像で得々と語っていた男――パトリック・オフリン(ケネス・ウェルシュ)も、仲間をすべて失いながら辛うじてフェリーに飛び乗り、騙した者と騙された者は共に島を目指す。

 だが、ようやく辿り着いたその島でサージたちが遭遇したのは、鎖で繋がれた無数のゾンビが生前の営みを繰り返す異様な光景と、物陰から彼らを狙う銃口

 解っていたことだが、この島も“楽園”ではなかった――それどころか、ゾンビに侵蝕されたことで、長年の対立が深刻化し、一触即発の様相を呈していたのだ……

[感想]

 ここに来てまたゾンビ映画が妙に増えている印象がある。長引く不況の影響でアメリカにおいても映画製作費が緊縮化し、大作にゴーサインが出しにくい一方で、ある程度の特殊メイクと限定された舞台設定で話が作れ、また固定ファンの支持が見込まれるゾンビ映画はすんなり通ってしまう、という傾向もあるようだが、同時に“いじり方”に工夫を加えればコメディにもシリアスにも社会派にもなり得る、解釈することの面白さも未だ損なわれていないからだろう。

 ゾンビにこれほど多彩な切り口がある、という事実を示したのは他でもない、ゾンビを映画の1ジャンルに定着させ、未だ旺盛な創作意欲を示しているジョージ・A・ロメロ監督である。そんな彼が、前作『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』からほとんど間を置かずに着手した本篇もまた、単純にゾンビ映画として語りきることの出来ない魅力を放っている。

 崩壊した世界、それまでの関係、絆が“死の病”によって侵蝕されていく過程を描いているのはいつも通りながら、本篇にはそこかしこに異なった風合いを感じさせる。

 多くのゾンビ映画は純粋にゾンビや、蔓延する死の病からある程度逃れたところで締めくくるのが普通だが、本篇は隔離された先での、ある意味ゾンビをも凌駕する人間同士の確執の根深さ、恐ろしさを巧みに剔出している。いずれ治療法が見つかる、という方便のもと、ゾンビと化したものを拘束し、生前の習慣を繰り返させる、という趣向はそれだけで充分におぞましいし、島に深く根ざしていた確執が、死の病を契機に顕在化していく様は、業の深さを感じさせる。死の病が蔓延しているからこその危機と言動とを人間ドラマに結びつける技はもはや職人芸の域だ。

 しかし、隙がない、と言えば嘘になる。例えば序盤、島についての情報を青年が得たのはiPhoneと思しきツールだが、あれだけライフラインが破壊された状態では恐らく充電もおぼつかない。使用者なら解るだろうが、電波の不安定な環境で待ち受けを続けていれば、簡単に電池は尽きてしまうはずなのだ。また、ゾンビたちを生前の習慣に合わせて拘束させる、という行為はそもそも、その状態に持ち込むまでが難儀ではなかったか。そのために手伝わされた人間に危険が及ぶことも考えられ、如何に首謀者の影響力が大きかったとしても、島に残っていた人間からの信頼を損ねるのは必至だったように見られるが、そういう痕跡もない。

 だが、そのあたりの粗を凌駕する――とまでは言わないが、ある程度帳消しにしてしまうほど、細かな会話や描写に奥行きがある。追求しているのは相変わらず、襲いかかる死の病よりも生きている人間の執念や狂気のほうが恐ろしい、という部分だが、そういう言葉を用いることなく、ひたすら観る側にそう実感させる事実の積み重ねが巧みだ。

 長い時間を経て熟成された因縁と、そこに介入してきた人々とが絡みあった挙句に突入する、西部劇さながらの終盤と、泥仕合の様相を呈するクライマックスのインパクトは、ゾンビ映画としての文法を守りながらも、ある種の渋みが漂う。そして、その結果として辿り着くラストシーンに至っては、ゾンビ映画ならでは、でありながら、他のゾンビ映画とは違う種類の虚無的な余韻を留める。

 監督は本来、もっと違った種類の映画が撮りたかった、ゾンビ映画でないと企画が通らない、などと発言していた、という話も聞くが、個人的にそれは韜晦の類ではないか、と思えてならない。仮にどんな類の映画を撮ろうと考えても、それが可能である限り、ロメロ監督はずっと“ゾンビ”というガジェットの上に作品を築いていくのではなかろうか――そんな風に予感させる、異形の傑作である。

関連作品:

ゾンビ [米国劇場公開版]

ランド・オブ・ザ・デッド

ダイアリー・オブ・ザ・デッド

ドーン・オブ・ザ・デッド

デイ・オブ・ザ・デッド

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