原題:“The Last Airbender” / 監督&脚本:M・ナイト・シャマラン / キャラクター創造:マイケル・ダンテ・ディマーティノ、ブライアン・コニーツコ / 製作:サム・マーサー、フランク・マーシャル / 製作総指揮:キャスリーン・ケネディ、スコット・アヴァーサノ、マイケル・ダンテ・ディマーティノ、ブライアン・コニーツコ / 共同製作:ホセ・L・ロドリゲス / 撮影監督:アンドリュー・レスニー,ACS,ASC / プロダクション・デザイナー:フィリップ・メッシーナ / 編集:コンラッド・バフ,A.C.E. / 衣装:ジュディアナ・マコフスキー / 視覚効果&アニマトロニクス:インダストリアル・ライト&マジック / 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード / 出演:ノア・リンガー、デヴ・パテル、ニコラ・ペルツ、ジャクソン・ラスボーン、ショーン・トーブ、アーシフ・マンドヴィ、クリフ・カーティス、セイチェル・ガブリエル、フランシス・ギナン、デイモン・ガプトン、サマー・ビシル、ランダル・ダク・キム、ジョン・ノーブル / 日本語吹替版声の出演:小林翼、早志勇紀、小幡真裕、細谷佳正、根本泰彦、加瀬康之、井上和彦 / 配給:Paramount Pictures Japan
2010年アメリカ作品 / 上映時間:1時間43分 / 日本語字幕:佐藤恵子
2010年7月17日日本公開
公式サイト : http://www.airbender.jp/
TOHOシネマズ錦糸町にて初見(2010/08/17)
[粗筋]
太古の昔から、この世界は気、水、土、火という4つのエレメントがそれぞれ支配する国に分かれていた。4つの国には、それぞれのエレメントを操ることの出来る“ベンダー”という戦士が存在しているが、ただひとり、すべてのエレメントを自在に駆使する“ベンダー”も存在した。“アバター”と呼ばれるその人物は各国の“ベンダー”として転生を繰り返し、彼の圧倒的な能力によって4つの国は調和を保っていたが、100年前、気の国に誕生していたはずの“アバター”が突然姿を消したことで、調和は崩れた。
そして現在。南方にある水の国に暮らすサカ(ジャクソン・ラスボーン)とカタラ(ニコラ・ペルツ)の兄妹は、氷原で狩りをしている最中、足元の氷の中に奇妙なものを発見した。サカが表面に罅を入れると、そこから光と共に大きな球状のものが浮上し、割れた中から巨大な生き物と、ひとりの少年が現れる。
衰弱した少年――アン(ノア・リンガー)を村に連れ帰ると、間もなく火の国の使者たちが村に到来した。火の国の王子ズーコ(デヴ・パテル)と名乗るその首領は、まず村の老人たちに並ぶように命じたあと、アンの姿を見てしばし言葉を失う。そして、アンを連れて立ち去っていった。
ズーコ王子の様子と、村の長老の話から、サカとカタラはアンこそが“アバター”であることを知る。“アバター”が行方をくらましたあと、野心に燃える火の国は各地に戦争を仕掛け、多くの土地を支配下に収めている。そんな彼らのもとに“アバター”――アンを囚われたままにしてはいけない。カタラたちは、アンと一緒に眠っていた動物の足を借りて、救出に赴いた……
[感想]
『シックス・センス』以来、M・ナイト・シャマラン監督の作品はすべて劇場で鑑賞している。作を追うごとにサプライズが薄れ、ストーリー展開にも無理が生じてきたが、それでも新しい発想に挑む意欲、独自のセンスに彩られた映像を評価してずっと追ってきた。本篇もまた、世間的に評判は芳しくないが、それでも私なりに評価出来るポイントがあるだろう、と信じて劇場に足を運んだ。
……さすがに、これはまずい。
そもそも本篇には原作が存在する。『アバター 伝説の少年アン』というタイトルで、合計すると数十時間に及ぶ大作であったらしい。私は知らなかったが、世界各国で放送されている大ヒット作なのだという。これを実写映画化するにあたって、3部作として構想したということだが、それでも十何分の一、という大幅な圧縮をかけようとしたわけだから、よほど優れた情報整理の腕と巧みな語り口が必要となる。あいにく、本篇にはそのどちらも感じられないのだ。
プロローグ部分で取り急ぎ世界設定をナレーションやテロップで語るのは許容範囲だが、登場人物たちの行動の大半に裏打ちが見えてこないのがいけない。アンは修行を逃げ出し自ら氷の球の中に入って封印を施したらしいが、あれほどの力を行使したことが周囲に気づかれなかったのか、いやそもそも何故眠りに就いたのか。その背景については続篇で明かすつもりだったにしても、他のキャラクターが特に不審にも感じていないらしいのが不自然だし、言及がなければただの説明不足と捉えるほかない。
以降も終始、何故こんなことをするのか、こんな表現がなにを意味するのか、と首を傾げる箇所があまりにも多い。もしかしたら原作には、一連の行動の動機付けになる設定や出来事が存在したのかも知れないが、そういう説明なしに唐突に繰り出されては、驚くよりも困惑のほうが勝る。
最後までこの調子で、そもそも空想冒険ものに必要なモチベーション、カタルシスがほとんど掴めない。単純な二元論にせず、善悪の彼我が曖昧な状態で物語に奥行きを与える、と言うのは簡単だが、それでもそう感じさせるためには行動の意味、登場人物それぞれの思惑がある程度把握出来なければいけないのに、そこから足許がぐらついているのだからどうしようもない。
好意的に解釈すれば、原作のあまりに大量の情報を整理しかねて、ダイジェストのような物語になってしまい、結果原作の知識がないと楽しめない作品になってしまったのかも知れない。だが、最近のアメコミ原作の映画であれば概ね出来ていることを、本篇がまるっきり失敗しているというのは――やはり、脚本の質が相当に悪いとしか思えない。
だが、何もかもが不出来、というわけではない。シャマラン作品としては珍しいほどVFXを駆使した映像の質は高い。たとえばベンダーに操られる水や風、火の動きはリアルだし、場面ごとに色のトーンを統一した映像は世界観を堅牢なものにしている。
カメラアングルの工夫にも、しばしば唸らされるものがあった。アンと随行する兄妹との会話を、両者をアップにしたふたつの映像を切り替えながら進んでいたかと思うと、アンの不安に対比するかのように、アンの背後にはいつの間にか彼を慕う人々の姿がある。アクションシーンの、カメラで三六〇度を追いながらの映像も作り込みが見事だ。それぞれに武術の経験があるというノア・リンガーとデヴ・パテルの所作などはかなり見応えがあったと言える。
しかし、いくら映像やカメラワークに見るべきところがあっても、それを束ねるシナリオが練り込み不足なので如何ともし難いものがある。恐らくは、脚本をシャマラン監督自身が手がけるのではなく他の、たとえばアメコミ映画の経験があるなどで、情報整理の技術に長けた人材に委ねていれば、もっといいものになったのではないか。
自らのオリジナルとは要領が違うのだ、ということを認識しないまま、シャマラン監督自身が脚本を執筆したことが徒となったに違いない。世界観や人物像そのものには朧気ながら魅力が感じられるだけに、シャマラン作品を追い続けてきたものとしてはただただ残念な作品であった。
関連作品:
『ハプニング』
『ヴィレッジ』
『サイン』
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