原題:“The Way We Were” / 監督:シドニー・ポラック / 原作&脚本:アーサー・ローレンツ / 製作:レイ・スターク / 撮影監督:ハリー・ストラドリングJr. / プロダクション・デザイナー:スティーヴン・B・グライムス / 編集:ジョン・F・バーネット / 衣裳:ドロシー・ジェーキンス、モス・メイブリー / 作詞:アラン・バーグマン、マリリン・バーグマン / 音楽:マーヴィン・ハムリッシュ / 出演バーブラ・ストライサンド、ロバート・レッドフォード、ブラッドフォード・ティルマン、パトリック・オニール、ロイス・チャイルズ、スーザン・ブレイクリー、サリー・カークランド、ヴィヴェカ・リンドフォース、コーネリア・シャープ、ハーブ・エデルマン、ジェームズ・ウッズ / 配給:COL / 映像ソフト発売元:Sony Pictures Entertainment
1973年アメリカ作品 / 上映時間:1時間58分 / 日本語字幕:高瀬鎮夫
1974年4月6日日本公開
2010年3月19日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]
第1回午前十時の映画祭(2010/02/06〜2011/01/21開催)上映作品
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2010/12/08)
[粗筋]
第二次世界大戦末頃のニューヨーク。ラジオのドラマ制作局で働いているケイティ(バーブラ・ストライザンド)は、客でごった返すバーで、軍服を身につけたハベル(ロバート・レッドフォード)の姿を見つけて、胸をときめかせる。
共産主義運動に熱意を注ぎ、学生達のあいだでアジテーターとして名を馳せていたケイティは、小説創作の講義を一緒に受けていたハベルの作品に、密かに憧れを抱いていた。だが、思想に厳しいケイティは、日和見的な行動をしている彼に想いを示したくても示せない。オープンカフェでいちど乾杯し、卒業記念のパーティで少しだけ一緒に踊ったことが、数少ない想い出だった。
ケイティは意を決し、再会したハベルを、コーヒーに誘う。了承したハベルだったが、多忙で疲れているのか、彼はケイティの部屋に着くなり、潰れるように眠ってしまった。衣服を脱ぎ、その傍らに横たわったケイティを、ハベルは夢うつつのまま抱擁する。彼が誰か別の女と勘違いしていることを察したケイティの頬を、ひと筋の涙が伝い落ちた……
しかし、このことがきっかけで、二人は急速に親しくなる。ワシントンに勤務するハベルの関心を繋ぎ止めたいあまり、ケイティが「ニューヨークに来ることがあれば、寝床を提供する」と進言したところ、しばらく経ってハベルは本当に連絡を寄越したのだ。
それから二人は本格的に交際を始める。だが、社会人となって多少は丸くなったかに見えたケイティだったが、彼女は未だに根っからの活動家であり、ハベルの友人たちの太平楽な言動とはどうしても相容れなかった……
[感想]
この作品を鑑賞するうえでひとつの障害となりそうなのは、大きな背景の1つとして、アメリカで共産主義思想の持ち主やそうと疑われた人々が次々と告発され、社会的な地位を喪失した“アカ狩り”と呼ばれる風潮が蔓延していたことを知っていないと、成り行きがいまひとつ理解できない可能性がある、ということだろう。ハリウッドでも多くのクリエイターが共産主義を疑われ、特に議会からの召喚を拒絶した10人、通称“ハリウッド・テン”はそのまま姿を消すか、復帰までに長い時間を要しており、このことは本篇の中でも軽く触れられている。
本篇はほぼすべての出来事が女性側の視点で綴られており、しかもその女性が共産主義の啓蒙を中心に、政治的なことに非常に関心の高い人物である、という点がかなり特異だ。随所で当時のソビエト連邦との関係や、戦争にまつわる言及があることが、ロマンス映画であるはずの本篇にユニークな雰囲気を添えている。
――とは言い条、やはり本篇の主題は“アカ狩り”という歴史や、その社会的な流れを描くことを中心の目的としていない。本筋はあくまでロマンスだ。
恋愛映画では様々なものが障害として立ちふさがるが、本篇の場合はその障害にヒロイン・ケイティの持つ強固な“信念”を設定している。同級生であったハベルの文才に嫉妬と憧れとを等しく抱き、彼に関心を抱きながらも、社会活動を暮らしの中心に据えていたケイティは口に出せない。時を経て、社会人として生計を立てるようになると、多少は暮らしと運動との折り合いがつけられるようになっていること、そして今を逃せば二度と会えないかも知れない、という怖れも手伝って、学生の頃とは違う大胆な行動に及ぶ。周辺の状況よりも、ケイティの境遇や信念が、あるときは障害となり、あるときは起爆剤にもなっているのが面白い。
そしてあとの展開も、周辺の状況が変化を促しながらも、基本的に波乱のきっかけを作るのはケイティとハベルとのあいだに横たわる価値観の違いなのだ。
粗筋のあと、ハベルは小説家としてハリウッドに招かれ、妻となっていたケイティと共に優雅な生活を送る。だがそこに、前述の“アカ狩り”旋風が巻き起こる。ハベル自身は政治的活動に関心は薄く、ケイティもそんな夫のために行動を控える分別はあったが、激昂すると地金が出る。その繰り返しが、二人の心にある溝を広げてしまう。価値観の違いが関係を揺さぶる類の恋愛ドラマは数多あるだろうが、こういう背景と推移はやはり非常にユニークだ。少なくとも、作中描かれる“アカ狩り”のまっただ中ではまずあり得なかっただろうし、本篇が作られたあとであっても珍しい趣向であることは、見渡してみれば解ることだ。
そんな風に、劇的な変転は起きず、当人たちの心情が物語の展開に繋がっているせいもあり、実際に波風は立っているのだが、派手さも衝撃も乏しく、率直に言って中盤は退屈な印象がある。台詞の仕掛けや明瞭な伏線の妙でもあれば別だが、それも決して突出していないので、私の趣味にはあまり合わなかった、と言わざるを得ない。
しかしそれでも、ヒロインは非常に魅力的だと思った。断固たる信念故にうまく表現することの出来ない想いを、さり気ない素振りやアプローチ、不器用な気遣いで表す姿は、実にチャーミングだ。整ってはいるが、鋭い鷲鼻のためにどうも怖い印象を与えるバーブラ・ストライザンドがそんな風に感じられるのは、彼女自身の演技力と人物像が見事に調和しているからだ。
そして、ラストシーンの余韻も素晴らしい。このくだりが活きてくるのは実のところ、中盤のどちらかと言えば地味な描写があるお陰なのだ。本心をストレートに表現できないケイティの言動には、かなり細かな嘘が鏤められているようだが、作中でその真偽をすべては明かしていない。このことが、終幕に奥行きを齎し、情感を膨らませている。
このさり気なくもしみじみとした感動に彩られたラストシーンを飾る主題歌も、バーブラ・ストライザンドが歌っている。タイトルバックでも流れていたこの曲は、要所要所でその旋律が反復されていただけに、ラストシーンの感動に共鳴して、よりいっそう全篇の印象を忘れがたいものにしている。
派手な事件など起きず、描写も終始地味なので、ピンと来ないと最後まで受け付けないだろうが、それでも非常にユニークで、純粋な感性と大人の理性とのバランスを巧みに保った、良質のラヴ・ロマンスであることは間違いない。
関連作品:
『スティング』
『ローマの休日』
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