原題:“World Invasion : Battle Los Angeles” / 監督:ジョナサン・リーベスマン / 脚本:クリス・バートリニー / 製作:ニール・H・モリッツ、オリ・マーマー / 製作総指揮:ジェフリー・チャーノフ、デヴィッド・グリーンブラット / 撮影監督:ルーカス・エリトン / 視覚効果監修:エヴァレット・バーレル / プロダクション・デザイナー:ピーター・ウェナム / 編集:クリスチャン・ワグナー / 衣装:サーニャ・ミルコヴィッチ・ヘイズ / 音楽:ブライアン・タイラー / 出演:アーロン・エッカート、ミシェル・ロドリゲス、ラモン・ロドリゲス、ブリジット・モイナハン、Ne-Yo、マイケル・ペーニャ、ルーカス・ティル、アデトクンボー・マコーマック、テイラー・ハンドリー、コリー・ハードリクト、ジェイディン・グールド、ブライス・キャス、ジョーイ・キング、ウィル・ロスハー、ジム・パラック / オリジナル・フィルム製作 / 配給:Sony Pictures Entertainment
2011年アメリカ作品 / 上映時間:1時間56分 / 日本語字幕:太田直子 / PG12
2011年9月17日日本公開
公式サイト : http://www.battlela.jp/
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2011/09/25)
[粗筋]
2011年8月11日、宇宙に突然、それまで捕捉できなかった流星群が発見され、翌12日には世界各国の主要都市沿岸に落下した。各地で避難指示が出され、軍もその誘導に駆り出されるが、やがて間もなく命令は一変する。墜落した“隕石”から、無数の軍勢が現れ、各都市を攻撃し始めたのだ――軍人たちの任務は、民間人の保護と、未知の侵略者に対する抵抗に変わったのだ。
マルチネス少尉(ラモン・ロドリゲス)を中心とする海軍の第一小隊は、敵前線の後方にあるロサンゼルス西警察署に逃げこんだまま出られなくなっている民間人を保護し、前線基地となっているサンタモニカ空港まで送り届けるよう命じられた。
既に破壊の限りを尽くされた街には、強力な兵器を携えた未知の生命体が跋扈している。間もなく退官予定で指揮官という立場ではなくなっていたが、士官学校を出たばかりで実務経験のないマルチネス少尉をサポートするために配属されたナンツ二等軍曹(アーロン・エッカート)でさえも対処に苦しみ、小隊は早くから負傷者を出してしまうが、途中でやはり消耗した一小隊と合流し、どうにか警察署に辿り着く。
警察署に残っていたのは僅か5人のみ。どうやら敵兵は航空兵力を保持していないようなので、救出にはヘリが要請された。既に前線基地も混乱を来していて、到着したヘリが収容できるのは僅か4名。襲撃を避けるために、ひとまず負傷兵のみを乗せて飛び立ったが――直後、ヘリはにわかに出没した飛行物体の襲撃を受け、墜落した。
予定では間もなく、ロサンゼルス一帯に固まった敵勢力を一掃するための空爆が行われる。その前にサンタモニカ空港まで移動しなければ、第一小隊も、保護した民間人も巻き添えになる。
果たして彼らはこの窮地を脱することが出来るのか、そして圧倒的戦力を誇る“異星人”に、人類は太刀打ちできるのか……?
[感想]
2011年はやたらと“宇宙人”を題材にした映画が公開された。本篇もそのひとつ――なのだが、幾分毛色が異なるような印象を受けた。
題材が“宇宙人”であることは間違いないし、製作者たちがそうしたモチーフに暗いわけでないのは察しがつく。だが、本篇の主眼はむしろ、一切のコミュニケーションを断った、未知の相手との戦いを描いた、戦争映画として構築することにあったように思う。
考えてみると、確かにこういった切り口は案外珍しい。どうやらこのジャンルにおけるひとつの到達点として認知された感のある『宇宙戦争』にしても、日本では少し前に公開された『スカイライン−征服−』にしても、同じように有無を言わさず侵略行為に走る宇宙人たちの脅威を描いているが、いずれも闘う能力を持たない一般人の視点なのだ。本篇のように冒頭から徹底して軍人の目線で描いている、というのはあまり作例がないのではなかろうか。
こうした視点からの描写を成立させるために、本篇は宇宙人による侵略を描いたSFならではの醍醐味を、恐らくは意識的に省いている。前述の2作品では、人類と大きく異なるその特性を観る者に実感させるために一定の尺を割いているが、本篇はごくごく最小限だ。途中、獣医の協力を仰いで、捕えた宇宙人の急所を探ろうとする描写があるのがユニークで、その特性はさすがに異様だが、急所を含めて、月並みな発想に留まっている。故に、そうした面白さを求めて劇場に足を運ぶと、かなり物足りなく感じるはずだ。
だが、もし現実に、こういう形で宇宙人が侵略してきたとしたら、そしてその状況下で軍隊がどのような行動を取るのか、という部分を、本篇は極めてリアルに、徹底した筆致で描いており、その過程、表現は見応えがある。詳細が解らないまま現場に向かわされる兵士たちの困惑と昂揚、それまでの常識では計れない敵との交戦に動揺するさま、刻一刻と変化する状況に、情報を限定されながらも臨機応変で対応する姿は、決してヒーローでもなければ事情通でもない兵士たちの実像を感じさせる。当初のプロットでは科学者なども絡める構想だったそうだが、それを省いたのは正解だっただろう。なまじ専門家がいないからこそ、自らの領分のなかで行動する姿が、定型の宇宙人映画では出せない味わいを醸しているのだ。
同様に、こういう展開を扱った戦争映画というのも恐らくあまり類を見ない。どんな切り口であろうと、基本的に戦争映画は相手が人間であるだけに、出方を窺うにしても人間の心理や信条、生活背景が解っている。しかし本篇は、相手の目的は不明、交渉はまったく不可能、それどころか兵器の特性や生物としての急所も解らない、という状態だ。手探りしながら、不死身としか思えない敵と戦い、その場その場で得られる手懸かりを解釈して、とにもかくにも起死回生の機を窺う様は、戦争映画ならではの、だが一般的な戦争映画では醸成し得ない緊迫感に満ちている。
惜しむらくは、そうした組み合わせの妙は素晴らしいのに、その中で繰り広げられるドラマがあまりに定石通りだ、ということだ。よくコントなどで、近々結婚する話をしたり、子供が産まれることを持ちだした人物はけっきょく死ぬ、というお定まりの流れを揶揄しているが、本篇はほとんどひねりなしに、そういう展開を組み込んでいる。途中の親子関係のドラマ、最後の感動的なくだりにしても、ストレートすぎて、率直に言えば陳腐だ。
ただ、ストレートだからこそ、悪い意味でもいい意味でも話の先が読める。先が読めるということは、前述したような、現実ではあり得ない(あるかも知れないが少なくとも普通は想像しない)敵を相手取った戦争映画、という部分に観る側が没頭できる条件が整っている、ということでもある。やたらとその特徴について考慮しなければ理解できないような兵器やアクションはなく、破壊すれば撤退するし、人間ではあり得ないような特徴も理解の及びやすい範囲に限られているから、戦闘シーンの迫力やストレートな駆け引きに素直に興奮でき、ギリギリのなかで繰り広げられるクライマックスに手に汗握り、感動も味わえる。
SFとしての工夫の乏しさ、展開の陳腐さは否定できないが、特異なシチュエーションに基づく戦争アクション映画としては、描写の迫力、臨場感など、出色の出来映えと言っていい。それでも出来れば、宇宙人の設定やプロットに更なる工夫があれば……という想いも抱くが、恐らくは意識してシンプルにまとめているのだから、その潔さは評価すべきだろう。
もしかしたらいつか私たちも晒されるかも知れない未曾有の危機を、なにも考えずに体感していただきたい。
関連作品:
『黒の怨』
『宇宙戦争』
『宇宙人ポール』
『ダークナイト』
『アバター』
『大いなる陰謀』
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