原題:“Hobo with a Shotgun” / 監督&編集:ジェイソン・アイズナー / 脚本:ジョン・デイヴィース / 製作:ロブ・コッテリル、ニヴ・フィッチマン、フランク・シラキューサ、ポール・グロス / 製作総指揮:マーク・スローン / 撮影監督:カリム・ハッセン / プロダクション・デザイナー:ユエン・ディクソン / 音楽:ダリウス・ホルバート、アダム・T・バーク、ラス・ハワードIII世 / 出演:ルトガー・ハウアー、グレゴリー・スミス、モリー・ダンズワース、ブライアン・ダウニー、ニック・ベイトマン、ロブ・ウェルズ / 配給:Showgate
2011年アメリカ作品 / 上映時間:1時間26分 / 日本語字幕:間渕康子 / R-18+
2011年11月26日日本公開
公式サイト : http://hobo-movie.com/
シネマート六本木にて初見(2011/11/22) ※トークイベントつき試写会
[粗筋]
男(ルトガー・ハウアー)は、町から町へとさすらい、各所で日雇いの仕事について金を稼ぎ、また旅立っていく、いわゆる流れ者=“ホーボー”であった。男がその町に入ったのも、ただ金を稼ぐためだった、はずだった。
看板に“クズの町”と落書きされるほど、町は悪徳に支配されていた。あちこちで暴力が蔓延り、善良な住人は顔を伏せ、こそこそと暮らしていくしかない。
そんな悪党どもの頂点に君臨しているのが、ドレイク(ブライアン・ダウニー)である。町は彼の一族によって支配されているが、たとえ家族であっても、裏切りや失敗には容赦をしない。ホーボーが初めて目撃したドレイクの“ショー”は、ドレイク自身の弟を処刑する現場であった。
ホーボーは、よその町とは比較にならないほど腐りきった状態に反吐が出る想いを抱きつつもこらえていたが、ひょんなことから入り込んでしまったゲームセンターで、ドレイクの息子・スリック(グレゴリー・スミス)がアビー(モリー・ダンズワース)という売春婦を拉致しようとする場に行き会い、衝動的に彼女を助け出す。ホーボーはスリックを町の警察署に担ぎ込み、「町の大掃除をしろ」と訴えた。
だが、この町は既に、警察署でさえ腐敗しきっていた。スリックはあっさりと釈放され、署長(ジェレミー・アカーマン)の目の前でホーボーに対して仕返しをする。ナイフで胸に“クズ”と刻まれたホーボーは、逆に自分がゴミ箱に放り込まれてしまった。
血まみれで徘徊したホーボーは、ふたたびあの売春婦アビーと出逢い、彼女のもとで僅かな休息をとったあと、決死の想いで金を稼ぎ、雑貨屋へと赴く。最初は、真っ当な仕事に就くため、芝刈り機を購入するつもりだった――雑貨屋に強盗が踏み込んでくるまでは。
赤子にさえ拳銃を向ける強盗たちの姿を前に、ホーボーは視線を、芝刈り機ではなく、壁に陳列された、ショットガンに注いでいた。
そして、流れ者による、壮絶な“大掃除”が始まる――
[感想]
この作品、ちょっとユニークな来歴がある。クエンティン・タランティーノとロバート・ロドリゲスが、往年のB級映画にオマージュを捧げた競作『グラインドハウス』を製作・公開したことを記憶している人は多いだろう。あの作品には、両監督の作品のあいだに、実際には存在しない、しかしB級作品専門の映画館でかかりそうな架空の映画の予告篇を組み込んでいた。それぞれの予告篇はロドリゲス監督を筆頭にイーライ・ロス、ロブ・ゾンビ、エドガー・ライトという錚々たる面々が撮影しており、考えようによっては本篇よりもインパクトがあったほどだ。強烈すぎるあまり、「本当にこの映画が観たい!」という声が挙がり、監督もそれを切望した結果、ロバート・ロドリゲスによる『マチェーテ』の製作が豪華なキャストを結集して実現、ぶっ飛んだ仕上がりで好事家を喜ばせた。
この『グラインドハウス』が公開された際、北米ではこの特殊な趣向にちなんで、フェイク予告篇コンテストなるものが開催された。作中で用いられているのと同様、実在はしないがB級映画ファンの心を擽るような予告篇を公募して審査するもので、ここでグランプリを獲得したのが、ジェイソン・アイズナー監督による『Hobo with a Shotgun』だった。
つまり本篇は、新人監督のデビュー作ではあると同時に、『マチェーテ』と同じ『グラインドハウス』レーベル発の第2作、という位置づけと言っていい。
内容的には、『マチェーテ』以上に、ある意味でより正統的なB級映画――それこそタランティーノとロドリゲスがオマージュを捧げた、場末の映画館で公開される低俗な娯楽映画を代表するような雰囲気に仕上がっている。
正直なところ、かなり期待して臨んだものの、描写については思っていたほどショッキングとは感じなかった。いや、恐らく流血や暴力の映像が苦手である、嫌悪感があるという人であれば確実に不快になるレベルだろうが、その痛みを観客に疑似体験させてしまうような緊迫感、より苦しみをあおるような前提を設けていないので、わりとさらっと流れてしまう印象だ。血飛沫は飛び散るし内臓は溢れでるし冒頭の処刑はなかなかにえぐい代物なのだが、作り手がその特殊効果を愉しんで満足してしまっているように感じる。
だがしかし、考えてみればB級映画の愉しさ、というのはこういう“残酷だが、残酷さを軽んじているような空気”こそある意味で魅力である、とも言える。現実では決して許されない行為を、フィクションであるからこそ徹底し、かつ無造作に描き出す。俗悪だし、良識を重んじる人が顔をしかめるのも無理はないが、しかしフィクションだからこそ許される娯楽の極地とも言える内容なのだ。
ストーリーも安易である――というか、舞台である町が何故あそこまで腐敗してしまったのか、ドレイクはどんな権力によって町の“王”に君臨することが出来たのか、いやそういうことを差し引いても町全体の収入源となる産業が存在しているのか、などといった裏打ちがまったくされていないので、終始暴力の応酬で話が進んでしまっている。
しかしそれも、「こいつは悪い奴だから悪い」というごくごくシンプルな背景を築きあげ、中盤以降、ホーボーが武器を手にして以降の壮絶な反撃を、悽愴だが痛快なものに感じさせている。理屈が最小限だからこそ、随所で定石を無視した展開も可能になっており、そこから迸るような激情に痺れてしまうのだ。
監督が新人ならキャスト、スタッフもほとんど無名の人々ばかり、というなかで、このタイトル・ロールたるホーボーをルトガー・ハウアーという一級の俳優が演じていることがポイントだ。名前がなく背景も不明瞭な人物ながら、その貫禄ゆえに表情、振る舞いに奥行きが感じられる。傷つきひとときの休養を求めて匿われたアビーの家のベッドで口にした熊の話や、クライマックス間際、病院の新生児室を前にした独白に力が備わっているのは、この俳優の背負った時間と漂わせる哀愁の為せる技だ。彼の出演が、本篇に1本、強い芯を通していることは間違いない。
低俗でチープを地でいく作品、だが、そういう映画だからこそ、良識的な映画や高予算の娯楽大作では決して出し得ない魅力を放つ。お行儀のいい映画にはそろそろ飽きました、という方には是非とも劇場に足を運び、同好の士と異様な興奮を共有していただきたい。
関連作品:
『グラインドハウス』
『マチェーテ』
『シン・シティ』
『狼の死刑宣告』
『グラン・トリノ』
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