『ラビット・ホール』

『ラビット・ホール』

原題:“Rabbit Hole” / 原作戯曲&脚本:デヴィッド・リンゼイ=アベアー / 監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル / 製作:レスリーアーダング、ディーン・ヴェネック、ニコール・キッドマン、パー・サーリ、ジジ・プリッツカー / 製作総指揮:ダン・リヴァース、ウィリアム・リシャック、リンダ・マクドナフ、ブライアン・オシェイ / 撮影監督:フランク・G・デマルコ / プロダクション・デザイナー:カリーナ・イワノフ / 編集:ジョー・クロッツ / 衣装:アン・ロス / キャスティング:シグ・デ・ミゲル、スティーヴン・ヴィンセント / 音楽:アントン・サンコー / 音楽監修:ロビン・アーダン / 出演:ニコール・キッドマンアーロン・エッカートダイアン・ウィースト、タミー・ブランチャード、マイルズ・テラージャンカルロ・エスポジート、ジョン・テニー、パトリシア・カレンバー、ジュリー・ローレン、サンドラ・オー、アリ・マーシュ / オリンパス・ピクチャーズ/ブロッサム・フィルムズ/オッドロット・エンタテインメント製作 / 配給:LONGRIDE

2010年アメリカ作品 / 上映時間:1時間32分 / 日本語字幕:太田直子 / PG12

2011年11月5日日本公開

公式サイト : http://www.rabbit-hole.jp/

TOHOシネマズシャンテにて初見(2011/12/12)



[粗筋]

 ベッカ(ニコール・キッドマン)がハウイー(アーロン・エッカート)とのあいだのひとり息子・ダニーを事故で喪って、8ヶ月が過ぎた。

 ベッカは、そろそろ立ち直らねばならない、と痛感していた。あれ以来荒れ放題となっていた庭の手入れを再開し、少しずつダニーの身の回りのものを処分しはじめる。いつまでも、想い出に縋ってはいられない、と思ったのだ。

 だが、ハウイーは違った。スマートフォンに記録した息子の動画をひとり眺めては涙し、子供を失った親たちの集会に、ベッカが呆れて参加をやめてからも通い続けている。ふたりの認識の違いは、夫婦の間に少しずつ溝を作りはじめていた。

 ある日、ベッカは妹のイジー(タミー・ブランチャード)がパートナーの子を妊娠したことを知る。そこで、もともと寄付するつもりでいたダニーの洋服を譲ろうと、イジーがパートナーと共に身を寄せている実家に赴くが、やんわりと断られてしまった。結局寄付用のボックスに洋服を放り込んで、家に向かう途中で、ベッカはある人物を見つける。

 スクールバスに乗って、家に帰ろうとしていた少年・ジェイソン(マイルズ・テラー)。彼こそ、犬を追って道に飛び出したダニーを誤って撥ねてしまった、張本人だった。

 考えるよりも先に、ベッカは彼のあとを追っていた。それからもたびたび、ジェイソンの様子を窺いに彼の家の近くまで車を走らせ――やがて、ジェイソンに気づかれてしまった。

[感想]

 人死にを中心に扱うドラマは、とかく“癒し”を求めたがる。傷ついた人の心を、子供の無垢な笑顔が、或いは常に公平たる信仰が、または何かの奇跡が、救い出してくれる瞬間を持ち込んでしまう傾向にある。

 だが、本当に傷つき苦しんでいる人のなかには、そういう奇跡や慰めの押しつけを嫌悪し、拒絶したがる人もいる。心がないから、ではなく、葛藤の末に過去を振り捨て、同情を慰めにしないと決める人がいるのだ。そういう人にとって、執拗に繰り返される善意の押しつけ自体が、新たな苦しみや哀しみを生み出しかねないものだ。まして、身近にいる者が、想い出の品や人々との交流に慰めを見出そうとしているなら、なおさらにその軋轢は激しいものとなる。

 この映画はそういう、従来描かれていたものとは違う喪失感との相克を、穏やかに、だが容赦なく切り出した作品である。

 実は、場面ごとに取り出してみると、どうということもない日常を捉えているように映る。庭の手入れをするベッカ、出勤前に妻にスキンシップを図るハウイー。子供を亡くした親の集会や、ベッカの妹イジーの突然の妊娠、彼女の誕生祝いのパーティといった少し特異な状況であっても、決して華々しくは描かれず、淡々と繰り広げられる。そんななかに、ぽつりぽつりと、ベッカの覚える違和感や反感が紛れ込み、少しずつ軋んだ気配を湛えていく。日常の延長上にありながら、じわじわと壊れていくような心地を味わわせてくるのだ。

 そんななかに、加害者の少年、という人物が紛れ込んでくることで、本篇はいっそう風変わりな手触りを示し始める。普通であれば憎悪しても良さそうなものだが、ベッカは彼の姿を追い、勘づかれたあとはまるで年の離れた友人のように静かに語り合う。ベッカは少年の姿に、成長したらこうなっていたはずの息子の姿を重ねているようでもあり、その振る舞いは一瞬、奇妙に感じられる。ベッカも対する少年も、ぎこちないが表情は穏やかで、他の人々と接しているときよりもベッカの雰囲気も穏やかで、まるで我が子を殺したはずの少年の存在に救いを覚えているようにも映る。

 だが、本篇の特異な点は、本当にこの加害者の少年こそが物語にとって唯一の救いとなっていることだろう。

 己に不幸を自覚させる過去を忌み嫌い、すべてを打ち消そうと藻掻くベッカにとって、想い出に固執する夫も、腫れ物に触るような接し方をする親族や友人も、極端な言い方をすれば“敵”になってしまう。そういう状況からいつまで経っても脱し得ない、ということも、子供を亡くした親たちの会を主催する夫婦が、子供の死から8年を経ていることが証明してしまっている。

 そんなベッカに、加害者である少年が、一所懸命執筆していたコミック『ラビット・ホール』と、その参考にした“パラレル・ワールド”という概念が、初めて発想の転換をもたらす。宇宙には多くの可能性があって、何処かには一切の問題が発生せず幸福に暮らしているベッカがいるかも知れない。今いる自分たちのこの世界は、数ある可能性のうちの、悲劇ヴァージョンなのだ、と。

 ポイントは、何処かに幸せな自分がいる、ということではない。どう抵抗しようとしても、ベッカや夫ハウイー、本来は慎重で心優しい加害者の少年にとって、現状が悲劇であることは事実だ。少年がベッカに齎した価値観は、己の立場を客観視させる契機として働いているのである。

 己の現状を客観的に眺めることで、ようやく不可解だった友人の反応にも理解を示す。過去を拒絶するために排除しようとしていた人間関係を、受け入れる方向へと立ち位置を変える。

 依然として、彼らは悲劇の渦中にある。だが、拒み続けたところで悲劇は悲劇として歴然と存在する。ならば抗うよりは、折り合いをつけて生きていくしかない。

 この結論からは、“癒し”は得られない。ただ、間違いなく“救い”にはなっている。より厳しい現実が待ち構えているかも知れないが、生きている以上歩き続けるしかない道へと、ベッカを引き戻している。

 本篇はハッピーエンドなどではない。だが、これからも生きていく、という力を取り戻す一瞬をきちんと織りこんでいる。だからこそ、本篇の結末はじんわりと沁みてくるのである。

 ……何だか無駄に熱く語ってしまった気がするが、とにかく従来の、喪失感をテーマとした映画とは一線を画する、奥行きのある作品である。安易なハッピーエンドに満足のいかない人にお薦めしたい。

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