『アリラン』

『アリラン』

原題:“Arirang” / 監督、脚本、製作、撮影、美術、録音、音響、編集&出演:キム・ギドク / 配給:Crest International

2011年韓国作品 / 上映時間:1時間31分 / 日本語字幕:根本理恵

2012年3月3日日本公開

公式サイト : http://arirang-arirang.jp/

シアター・イメージフォーラムにて初見(2012/03/03)



[粗筋]

 2008年、『悲夢』撮影中に、出演する女優が危うく死にかける事故が発生した。キム・ギドク監督自身がいち早く事態に気づき事無きを得たが、そのショックは監督に大きな痛手をもたらした。

 それまでは1作撮るごとに、編集のうちに次作の脚本を書き上げ、翌年には撮影する、というペースで製作を続けていたのに、『悲夢』のあと、監督は映画を撮ることが出来なくなった。監督は映画関係者との交流を一切断ち、余生を過ごすときのために購入してあった山小屋に引きこもってしまう。

 3年の時が過ぎ去ろうとしていた。世間ではキム・ギドクが廃人になってしまった、とさえ囁いていたが、当人は映画を撮りたい、という想いに激しく駆られている。監督は、いまの自分自身を記録するために、1台のカメラを購入した。

 日々の営みを淡々とフレームに収め、記録していくうちに、やがて監督はカメラに向かって――いや、もうひとりの自分に向かって、語りはじめていた……

[感想]

 韓国映画が日本で大いに持てはやされた頃、初めて紹介されたキム・ギドク監督は、しかし他の韓国映画とは異なる類の衝撃をもたらした。暴力的な表現に垣間見える繊細さ、現実を生々しく叩きつけながら、寓話的に昇華されるプロット、醜さと美しさとのあいだを行き来する独特の構図。韓国内より世界で高く評価され、国内では配給会社がつかない、というねじれ現象さえ起こしながら、2008年までは年に1本のペースで発表しつづけていた。

 だが、本邦のオダギリ・ジョーを主演に迎えた『悲夢』以降、脚本やプロデュースで名前は聞いても、自身の監督作はまったく紹介されなくなっていた。その刺激的な作風に惹かれ、積極的ではないにせよチェックを続けていた者としては、その不在が気にかかっていたところへ、忽然と紹介されたのが本篇だった。

『悲夢』は時機が合わず鑑賞出来ずじまいで、作中語られていたようなトラブルがあったことも知らなかったため、そういう意味でも驚きだったが、それ以上に驚きであると同時に意外だったのは、作中であれほど積極的に暴力を描き、危険な撮影も行っていたはずのキム・ギドク監督が、危うく出演者を死なせかけたとは言い条、たった一度の事故を契機にこんな引きこもり状態に陥っていたことだ。およそ物作りに携わるひとはだいたい繊細なものだが、あれほど物語も登場人物も逞しい作品を撮っていた監督の、この“弱さ”にまず驚かされる。

 本篇の中で、監督はそういう自らの“弱さ”にも言及する。何本か彼の作品を鑑賞した人にとって納得のいくこの自問自答の様子が、確かにカメラの前で彼が自らの本質を晒している、ということを実感させずにおかない。

 だが、本篇の興味深い点は、その自己言及の先にこそある。キム・ギドク監督は自らの心情を語るために、カメラに向かって単純にひとり語りを行うのではなく、キム・ギドク1がキム・ギドク2に対して問いかけ、それに答える、という手法を採っている。よくフィクションにおいて、ある人物の脳内で複数の人格が討論しあう、というシチュエーションが用いられるが、本篇はほとんどがその手法を援用して描かれているわけだ。

 冷静に考えれば、すべてひとりの頭のなかで繰り広げられる思考に過ぎないのだが、この構成と、実際に語られる言葉そのもののお陰もあって、本篇には客観性に近いものが感じられる。しかもそのうえ更に、作中ではこうして語り合う自分自身を、恐らく編集作業に携わっている様子なのだろう、モニター越しに眺めて嘲笑するキム・ギドク3が登場する。現実を入れ子にすることで、赤裸々な心情の吐露を正当化する一方、フィクションに擬してしまっている。

 この一見、主題を貶めるかのような趣向は、だがそれでいて、ひたすらに「映画を撮りたい」と訴えるキム・ギドク監督が、自らの映画作りの方法論を取り戻していくために必要な通過儀礼であったように映る。最初のうちは一切の説明もなく、山小屋での隠遁生活の様子を淡々と捉えているだけで、まさにプライヴェート映像の趣だが、そこにまるで告解のような、自分自身に対するインタビュー、という趣向を加えたところから、創作性が急激に高まる。そして、両者を客観的に見つめるもうひとりのキム・ギドクに、更にそんなふうに内に籠もる己に対して憎悪を滾らせるキム・ギドクまで登場するに至って、作品は単なる自分撮りの域を逸脱する。キム・ギドクという映画監督の持つ作家性が蘇っていくさまを、映画のなかで追っているような感があるのだ。

 言ってみればこれは、とことん映画に惚れ込んだ人間が、ふたたび映画の世界に戻るために、映画という表現手法の力を信じて臨んだ、再生の儀式と呼ぶべきものなのだろう。ここまで自らを追い込む映画という手法自体を用いて、創作に臨む力を取り戻そうとする、映画に対する意欲、情熱にいっそ打ちのめされる心地さえする。

 日本ではほぼ同時期に劇場公開された、『ヒューゴの不思議な発明』という作品がある。こちらは、天涯孤独となった主人公の目線で繰り広げられる謎解きの様子を、3D撮影という先進の技術まで含め、技の限りを尽くして描き出すことで映画への愛を仮託した、と言えるものだが――不思議なことに、これと本篇を相次いで鑑賞した私には、本質的に同じものに映るのだ。どちらも、映画に対する敬意、情熱、愛情に充ち満ち、好んで様々な映画に触れようとする人間にとって興味深く、恐ろしいほどに刺激的だ。

 キム・ギドク監督が悩み苦しみ、映画を撮れなくなっていた、というのは事実だろう。そういう状態からいっとき、逃避していたのも本当なのだと思う。だが恐らく、そんな己を撮影することで映画の世界に戻る、と決意したときから、彼は既に蘇りつつあった。人前で自慰するかのような内容に、入れ子構造にしていくことで客観性を付与し、更に従来のキム・ギドク作品にあった緊迫感を加えることで、他人の鑑賞にも耐えうるどころか、感性を刺激する、紛う方なき傑作を完成させるなど、既に彼がしたたかな映画監督として復活していたことの証明に他ならない。

 私自身は、たまたまタイミングが合わなかったこともあり、2008年に日本で公開された『ブレス』以降、『絶対の愛』、『悲夢』を観られずに来てしまったが、こんなものを目の当たりにしてしまっては、嫌でも次の作品に期待したくなる。そして事実、キム・ギドク監督は既に本篇のあとに、新作『アーメン』を完成させているという――早く、この最新作に接したいものだ。沈黙を経て彼がどう変わったのか、或いは変わらなかったのか、を確かめたくて仕方ない。

 ……ところでこの、成り立ちも出来映えも衝撃的だが、観ていてもうひとつ、驚いた点がある。

 キム・ギドク監督の、手先の器用さである。

 映画の中でも語っているが、映画製作に携わる以前は、機械の整備などをしていたという。ならば納得はいく、がそれにしても、山小屋のあちこちに置かれた道具の見事さに、しばしば話の内容を忘れて感銘を受けてしまうほどだ。

 雪解け水を濾過するための装置らしきものがあり、薪を利用した暖房器具には、魚を焼くためのグリルらしきものが組み込まれている。作中でもかなり詳細に捉えられているが、隠遁生活のあいだに4台もエスプレッソ・マシーンを作ってしまった、というのが驚きだ。

 しかもクライマックスでは、拳銃を自作さえしている――果たして実弾を撃てるほど精巧なものだったのか、安全性や法律の面で問題はないのか、という疑問は湧いてきたが、いずれにせよ、必要とあればこんなものまで作ってしまう“創作意欲”には恐れ入る。

 ……っていうか、きっと映画監督を完全に辞めても、食っていけるぐらいのレベルだと思う。

関連作品:

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