原題:“Atonement” / 原作・製作総指揮:イアン・マキューアン『贖罪』(新潮文庫・刊) / 監督:ジョー・ライト / 脚本:クリストファー・ハンプトン / 製作:ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、ポール・ウェブスター / 撮影監督:シーマス・マクガーヴィー,B.S.C. / 美術:サラ・グリーンウッド / 編集:ポール・トシル,A.C.E. / 衣装:ジャクリーン・デュラン / 音楽:ダリオ・マリアネッリ / 出演:キーラ・ナイトレイ、ジェームズ・マカヴォイ、シアーシャ・ローナン、ロモーラ・ガライ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ブレンダ・ブレッシン、パトリック・ケネディ、ベネディクト・カンバーバッチ、ジュノー・テンプル、ピーター・ワイト、ハリエット・ウォルター、ミシェル・ダンカン、ジーナ・マッキー、ダニエル・メイズ、ノンソー・アノジー、アンソニー・ミンゲラ / 配給:東宝東和
2007年イギリス作品 / 上映時間:2時間3分 / 日本語字幕:関美冬
2008年04月12日日本公開
公式サイト : http://www.tsugunai.com/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2008/04/12)
[粗筋]
1935年、イングランド。郊外の館に暮らす13歳のブライオニー・タリス(シアーシャ・ローナン)にとって、迫り来る戦火の影はさほど気にならなかった。このときの彼女が関心を抱いているのは、長いこと小説を書いてきた自分が初めて執筆した戯曲を、久々に帰ってきた兄リーオン(パトリック・ケネディ)と姉セシーリア(キーラ・ナイトレイ)のために披露する、ということだけだった。
だがその計画は、役者になってもらうはずだった従兄弟達が一向に乗り気にならず、早速と頓挫してしまう。ふて腐れて窓を眺めていたブライオニーの目に、衝撃的な光景が映った――館の前の噴水で、使用人の息子であるロビー・ターナー(ジェームズ・マカヴォイ)がセシーリアに何やら横柄な態度を取り、彼女を噴水に飛び込ませていたのだ。ブライオニーは異様な衝動に駆られ、館を飛び出していく……
……ロビーはブライオニーたちの父の出資でケンブリッジ大学に進み、更に医学を修める予定になっている。セシーリアも同じケンブリッジに在籍していたが、しかし在学中は頑なにロビーを拒んでいた。久々にまともに会話をしていたとき、妙に言い合いになって、セシーリアが持っていた花瓶のつかみ合いになり、割れてしまった。彼の前で意地を張ったセシーリアは、スリップ一枚になって飛び込み、破片を拾ったのだった。
だが、この出来事を契機に、昔から相手をよく知っていたふたりは、互いを強く意識していることを自覚して煩悶する。ロビーはタイプライターに向かい、詫びの言葉を連ねた手紙を用意しようとするがなかなかまとまらず、決して渡せるはずもない、卑猥な言葉で本心を告げる手紙を用意して自嘲にも似た笑いを漏らしていた。
その晩、ブライオニー渾身の戯曲こそ取りやめになったものの、リーオンの友人ポール・マーシャル(ベネディクト・カンバーバッチ)らを招いた晩餐が催される運びとなっており、ケンブリッジを無事に卒業したロビーも招かれていた。セシーリアに直接手紙を渡すのが気恥ずかしかったロビーは、ブライオニーにそれを託す。しかし、直後に彼は自分の失態に気づいた――封筒に入れた手紙は、最後に書き上げた穏当な文句のものではなく、脇によけておいた、卑猥な文句によるものだったことに。
断片的な事実、そして些細な手違いと誤解が、その晩のある事件と結びつき、ブライオニーを許されざる過ちへと導いていった……
[感想]
原作付きの映画で、気になったものについてはなるべく予め原作に触れてから劇場に足を運ぶようにしている。本篇は原作者のイアン・マキューアンに前々から関心を抱いていたこともあって、事前にひととおり読み終えたのだが――非常に唸らされた。もともと映像化不可能という話がされていたが、それもそのはずで、文章であればこそ可能な趣向、心理描写がふんだんに為されている。加えて、ストーリー展開が恐ろしく緊密で、描写のどこを欠いても不充分な印象を齎す。
こういう作品を、原作を愛する人に決して不満を抱かせず、一般の映画ファンにも受け入れられるように組み立てる、というのは非常に難しい。最近はその辺をわきまえている製作者も多いようだが、だからと言って成功するとは限らない。そんな中にあって、本編は間違いなく稀有な成功例に数えられる。
要は原作の、複雑に盛り込まれた文学的趣向のなかから、題名にもある“つぐない”と、その軸を為す男女の愛情に照準を絞り、また直接描写ではどうしようもない表現を省いて、映像で語れる部分に精力を傾注した、ということなのだが、無論そこには原作に対する深い理解と、丹念な咀嚼が求められる。本編はそれを充分に成し遂げているのだ。
物語の焦点となるブライオニーの“罪”は、幾つかの誤解と、僅か1日のあいだに起きた出来事の兼ね合いによって生まれる。小説ではこの最初の1日を複数の視点を切り替えることで重層的に、しかし説得力充分に描いているが、映画ではブライオニーと、彼女の罪によって引き裂かれるロビーとセシーリアの3人に絞り、イメージをうまく押さえた映像と巧みな編集によって、その意識の流れを極めて平明に捉えている。当然削除された台詞や場面も多々あるが、エッセンスは完璧に抽出しているので原作を敬愛している向きにも不満を与えないだろうし、映画としても印象的な場面が無数に積み重なっている。
こうした取捨選択のセンスが冴え渡るのは中盤以降、ブライオニーの罪が完成したのち、戦時中の出来事の描写である。原作では逃亡中ながら未だに戦火の下にいるのをまざまざと感じさせる表現が繰り返されるが、本編では一般の戦争映画に盛り込まれるようなドンパチはない。その絶望的な逃亡の様子と、辿り着いた場所での群像をワンカット長廻しで描き出している。この辺りの描写は、間違いなく原作とは別次元の高みに到達している。戦争を描くことが本質ではない作品だが、その辺の安易な戦争映画などより格段にその本質を捉えていると言えよう。
そしてこのくだりが直後の、成長したブライオニーの描写と結びついて、クライマックスへと赴く。作品にとって重要な要素を巧みに抜き出し、絶妙に再構築している。基本的な構成はそのままだし、それを築きあげた原作にこそ功績があるのは異論を待たないが、それに敬意を表してきちんと再現した意志と、同時に映画としてもいいものを作りあげようとした志の高さが快い。
ラストシーンも秀逸だ。ここでも原作のある部分をごっそりカットしているが、その代わりに映画独自の場面を最後に添えることで、苦さを留めつつも美しく快い余韻を響き渡らせている。原作を読んだ人のなかには、あまりに情緒的なこの結末に不満を抱くかも知れないが、本編で絞り込まれた主題を思えば、むしろこういう形で締めくくることこそが本懐なのだから。
アカデミー賞では、やはり原作の再現性が高い上に人物のインパクトも強かった『ノーカントリー』があったために主要部門の大半を逃してしまったが、それでも傑作であることに変わりはない。その優れた作劇のセンスと時代の空気を押さえた表現、そして切なくも美しいラストシーンと、まさに映画の醍醐味の詰まった名作である。
ちなみに本編が唯一オスカーに輝いたのは音楽部門であったが、これは実際に観てみると非常に頷ける結果であった。本編のゴシック的な雰囲気に合わせて荘重なメロディと演奏が主体だが、そこにリズムとしてタイプライターなど一部の効果音を巧みに合成し、場面場面の印象をいっそう際立たせている。作品にとって欠かすべからざる領域にまで達しながら、旋律は華麗で単独でも傾聴に値する、なるほどオスカーに相応しい出来であった。
もうひとつ余談。本編の語り手であるブライオニーは、その三世代を三名の女優が演じている。きちんと同一人物が年齢を経て経験を積み重ねていったイメージが確立されており、配役・演技ともに素晴らしい出来だったが、しかしちょっと引っ掛かるのは、最晩年を演じたヴァネッサ・レッドグレイヴである。
演技の出来は否定しない。終盤の僅か数分だけだが、充分に記憶に残る演技を披露しているあたりさすがの貫禄である。しかし問題は、彼女が本編と時期を同じくして出演し、日本では直前に公開される格好となったのが、『いつか眠りにつく前に』だった、という点である――正直、ここまで似通った役柄が続くのは、色々と拙かないだろーか。
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