『潜水服は蝶の夢を見る』

原題:“Le Scaphandre et le Papillon” / 原作:ジャン=ドミニック・ボービー(講談社・刊) / 監督:ジュリアン・シュナーベル / 脚本:ロナルド・ハーウッド / 製作:キャスリーン・ケネディ、ジョン・キリク / 共同製作:レオナルド・グロウィンスキ / 製作総指揮:ピエール・グリュンステイン&ジム・レムリー / 撮影監督:ヤヌス・カミンスキー / 美術:ミシェル・エリック、ローラン・オット / 編集:ジュリエット・ウェルフラン / 衣装:オリヴィエ・ブリオ / 音楽:ポール・カンテロン / 出演:マチュー・アマルリックエマニュエル・セニエ、マリー=ジョゼ・クルーズ、アンヌ・コンシニパトリック・シェネ、ニエル・アルストリュプ、オラツ・ロペス・ヘルメンディア、ジャン=ピエール・カッセル、マリナ・ハンズ、マックス・フォン・シドーイザック・ド・バンコレ、エマ・ド・コーヌ / 配給:Asmik Ace

2007年フランス・アメリカ合作 / 上映時間:1時間52分 / 日本語字幕:松浦美奈

2008年02月09日日本公開

公式サイト : http://www.chou-no-yume.com/

シネカノン有楽町2丁目にて初見(2008/02/09)



[粗筋]

 目醒めたとき、ジャン=ドミニク・ボビー(マチュー・アマルリック)――通称ジャン=ドーはベッドの上にいた。僅かに開ける瞼の向こうには、話しかける医師の姿があったが、自分では応えているつもりでも、一切その言葉は伝わっていない。

 意思の疎通がないままに、医師がジャン=ドーに告げた病名は、“閉じ込め症候群”――脳梗塞が原因で、思考は明瞭なまま身体能力のすべてを奪われ、さながら意識が肉体という檻に閉じ込められたかのような状態からそう名付けられた病状であり、原因も治療法も判明していない難病であった。

 彼が唯一自由に動かすことが出来るのは左目だけ、まばたきが出来ず感染症を起こす、という理由から右目は勝手に塞がれ、一切自由意志のないまま看護を受ける状態に、ジャン=ドーは絶望を色濃くしていく。最後まで結婚に至らず、ジャン=ドーにとって“子供の母親”という立場であったセリーヌ(エマニュエル・セリエ)や友人ローラン(イザック・ド・バンコレ)らの見舞にも、何ら反応を示すことも出来ない。看護師が気分転換にと車椅子に彼を乗せ、バルコニーに運ぶ途上、廊下の窓に映る自分の姿を、ジャン=ドーは“標本のようだ”と感じる……

 しかし、そんな彼の封じ込められた意識に、一人の人物が手を差し伸べる。言語療法士のアンリエット(マリー=ジョゼ・クルーズ)はジャン=ドーの唯一動く左瞼を意思疎通に利用できると考え、同僚と共に筋の通った手段を考案して、彼の前に現れた。アンリエットはアルファベットをフランス語において使用頻度の高い順に並べ替え、それをジャン=ドーに対して囁き、まばたきで必要な文字を提示させる、という方法で文章を形作り、意思の疎通を図ろうとしたのだ。

 手段としては正しかったが、有名ファッション誌『ELLE』編集長にまで上りつめた活発なジャーナリストであったジャン=ドーにとって、美しい女性に根気づよくスペルを囁かれ、まばたきでひと文字ひと文字選んでいく、というやり方はさながら児戯のようで、自己嫌悪を覚えさせるものだった。彼はアンリエットの問いかけに対して、戯れに“死にたい”という単語を選ぶ。アンリエットはいちど憤り、席を立ったが、やがて戻ってきて懇々と彼を諭した。貴方は私たちにとって必要な人物なのです、と。

 ――そんな慰めを真に受けるほど、ジャン=ドーという人物は決して楽天的ではない。だが、まがりなりにも意思疎通の手段を得たことは、閉じ込められ鬱屈していた彼が本来備えていた機知を蘇らせた。そして彼は、唯一生きている左瞼だけで、ある計画に着手することを提案する……

[感想]

 全身麻痺状態となった人物に関する実話、というと咄嗟にアカデミー賞外国語映画部門受賞で話題となった『海を飛ぶ夢』を想起する人は多いだろう。だが、あちらは首から上がすべて機能しており、生来の優れた頭脳と弁舌を駆使して、極めて能動的に自らの死を選択する、という成り行きで、そもそも意思の疎通からして困難と忍耐とを強いられる本編の主人公とはかなり方向性が異なっている。同列に並べるにしても、まずその点を考慮する必要があるだろう。

 しかし着想の類似を除けば、本編のほうがあちらよりも遥かに実験的で、極めて難易度の高い趣向を用いていることは間違いない。何せ本編は序盤、基本的に主人公ジャン=ドーの視点からすべてを描いている――それは描写の主体が主人公にある、程度の単純な話ではなく、本当に主人公の見ている風景を極限まで再現する、というやり方なのだ。

 だから、序盤の登場人物は、唯一まともに機能している左目に顔を近づけて話をする都合上、すべてカメラを覗きこむ。主演のマチュー・アマルリックは心境をモノローグとして語る、という形で物語に関わり、初めてまともに画面に現れるのは、車椅子に乗せられてバルコニーに運ばれている途中、ガラスに映る姿なのだから、実に凝った作りだ。ご丁寧にも、右目の瞼を縫合される場面まで再現しているのである――このとき主人公は痛覚さえも喪っていたはずで、医師が語る通り痛みは感じないだろうけれど、しかし観ているほうがショックは大きい。あまりに生々しい表現ゆえ、多少なりとも覚悟が必要かも知れない。

 この手法を貫き通すとまるっきりの実験映画になってしまうところだが、本編は絶妙のタイミングで、ジャン=ドーの健康だった時分の回想や言語療法士らに近い視点からの描写を織りこむことで、全体でのバランスを保っている。この辺りの呼吸は、視点の拡散を不自然に感じさせない機知に富んだテキストと編集の巧さに因る部分が大きい。特異なシチュエーションにも拘わらず、いつしかそれを過剰に意識することなく、“物語”のなかに惹きこまれているのだ。

 本編の出色な点は、これだけ絶望的な状況なのに、全体に悲壮感が薄いことだ。敢えて主人公自身の視界を基本的な映像に据えたことで、右目は塞がれ左目だけが活発に動く、というヴィジュアルを過度に強調せずに済んでいるのもさることながら、健康であった時分、主人公がそうであったと思われる気性を反映して、彼自身のモノローグが極めてウイットに富んだものになっていることがその不思議な明るさに寄与している。本編は実在したジャン=ドミニク・ボビーがまさに左瞼のみで“執筆”した同題書籍をベースにしているというが、とても病床にいるとは思えぬほど想像力に優れた内容であるらしい。絶望的な状況にあっても、だからこそ心の跳躍力を損なわなかったその逞しさを、きちんと再現しているから、不思議なほど物語は活力に満ちている。

 前述の書籍が発売されてわずか数日後、ジャン=ドミニク・ボビーはこの世を去っており、本編もその場面で幕を下ろす。悲しい場面にも拘わらず――そして、死の淵に瀕して主人公のモノローグでさえ削られているにも拘わらず、やはり作品は奇妙なほど爽快な余韻を残す。極限まで生きようとした人の意志を克明に追っているからこそ、この物語には寧ろ“達成感”と呼ぶべきものが強く滲んでいるのだ。

 最初に、『海を飛ぶ夢』とは方向性が異なる、と記したものの、しかし決着したときの余韻は不思議にも似通っている。それは、どんな意志であれ、極限の中で貫き通した人の姿にある清々しさを見事に描ききっていることの証左なのだろう。現在、本編は本年度アカデミー賞において監督賞・脚色賞・撮影賞・編集賞と4部門で候補に上がっているが、いずれを獲得しても納得のいく、実験的、意欲的でありながら、娯楽としても完成度の高い1本である。

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