原題:“Khane-ye Doust Kodjast?” / 監督、脚本&編集:アッバス・キアロスタミ / 製作:アリ・レザ・ザリン / 撮影監督:ファルハッド・サバ / 美術:レザ・ナミ / 出演:ババク・アハマッドプール、アハマッド・アハマッドプール、ゴダバクシュ・デファイ、イラン・オタリ / 配給:ユーロスペース
1987年イラン作品 / 上映時間:1時間25分 / 日本語字幕:齋藤敦子
1993年10月23日日本公開
2001年9月21日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]
第2回午前十時の映画祭(2011/02/05〜2012/01/20開催)《Series2 青の50本》上映作品
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2011/08/04)
[粗筋]
アハマッド(ババク・アハマッドプール)はイラン北部にあるコケールという村にある小学校に通っている。学校の先生(ゴダバクシュ・デファイ)は厳しく、宿題をきちんとノートで行わないだけでも叱りつける。従兄の家にノートを忘れて宿題を1枚の紙に書いてきたネマツァデ(アハマッド・アハマッドプール)など、今度ノートに書いてこなかったら退学だ、とまで言われしまった。小学生にとって大切なのは勉強、家の手伝いも遊びも、宿題を済ませてから行うように、と先生は諭す。
放課後、家に帰ったアハマッドは、先生の教え通りに宿題を始めようと鞄からノートを取り出し、呆然とした。鞄には2冊、ノートが入っている。1冊はアハマッドのものだが、もう1冊はあのネマツァデのものだった。隣の席で、ノートのデザインがよく似ているせいで、帰り道にネマツァデが荷物を落としたとき、間違って自分の鞄に入れてしまったらしい。
このままではネマツァデが退学になってしまう。アハマッドは母(イラン・オタリ)に相談するが、赤ちゃんの世話や家事に忙しい母はろくに聞く耳を持たず、ただ「宿題をやりなさい」としか言わない。困じ果てたアハマッドは、とうとうネマツァデのノートを抱えて家を飛び出した。
出かけたはいいが、実はアハマッドはネマツァデの家を知らない。同じクラスにいる従兄がポシュテという村に住んでいる、というのが唯一の情報だった。少し遠いポシュテへと、アハマッドは宛てもないままに駆けていく……
[感想]
自分に馴染みのない文化圏の生活、というものはどうやっても想像しにくい。映画やドラマで何かと目にする機会のある西欧社会や、比較的近接した韓国、中国あたりはどうにか想像できても、南アフリカの人里離れた村落での生活を具体的に、そして誤解なく思い浮かべるのは、ほとんどの日本人にとって困難なことのはずだ。
だが本篇を見ると、イランの子供たちも当然のように学校に通い、帰ると家の手伝いをしたり遊んだり、宿題をしろと叱られたり……という、私たちにも馴染みのある暮らしをしていることが窺える。考えてみれば当然のことではあるが、どうしても世界的に支持されたり大ヒットを飛ばすような作品は、国際的な謀略を描いたり、大きな事件を巡る非日常の駆け引きを扱うことが多いので、本篇の舞台であるイランに限らず、さり気ない日常を切り取った作品と遭遇することは珍しいことだ。そういう点だけでも、本篇は一風変わった輝きを放っている。
しかし、それ以上に本篇が素晴らしいのは、そんなごくありふれた日常の隣にある出来事を、見事にひとつの冒険物語に仕立ててしまっていることだ。ふだん訪れたことのない村に向かい、友達の家を探して右往左往する。学校に通うことは出来るが、子供にとって年がら年中往復するのは辛い(たぶん、行き来するにしても、親の手伝いなどの名目で、大人と一緒であることが条件なのだろう)という距離感にある村を彷徨い、けっきょくやむを得ない経緯でいちど家に戻る。そしてふたたび丘を駆けて、あちらへと向かう……その一所懸命さは、観る者に微笑ましさと共に、ささやかなドキドキ感も齎している。
もうひとつ特筆すべきは、子供の目から、大人達の身勝手さ、独善的な振る舞いを切り取っていることだろう。とにかく先生の言うことに従いなさい、宿題をやりなさい、としか言わない母親に、自分の仕事しか眼中になく、質問をされても一切無視する左官屋。目上の者に敬意を払い言うことを聞きなさい、と言うが、周りがすべて目上の者、という状況で、子供のおかれた立場に配慮せずいい加減な物言いをする大人達のなんと多いことか。本篇の場合、この土地の文化的教育的水準の問題も大きかったり、それ以前に物語として構成するために誇張している傾向も強いのかも知れないが、現実にもありそうなアハマッド少年の苦境に、観ながら思わず同情してしまいたくなる。
そんなアハマッド少年を、決して賢しらにせず、だが愚かにも描いていない、その匙加減がまた快い。友達の家の手懸かりを探して、従兄の家を訪ねるつもりだったのが、いつの間にか忘れて友達の家に着いたはず、と思いこんでいたり、ようやく話を聞く大人に出逢えても説明が拙かったり、と如何にも子供っぽい頭の悪さを見せたかと思うと、急いでいるなかでも頼まれごとに素直に従ったりする。特に秀逸なのは終盤、道案内を買って出てくれた老人とのやり取りだ。そこで見せるアハマッド少年の気遣いの細やかさには、頭を撫でてやりたい、と思う人も少なくあるまい(冷静に考えると本篇のアハマッド少年、私が本篇を鑑賞した時点で30代ぐらいになっているはずだが)。
そういう心情描写の巧みさを見せる一方で、そうしたドラマがきっちりと効果的に働くような語り口、伏線の張り巡らせ方をしているのにまた唸らされる。ポシュテに向かう途中にあるZ字に道の走る丘を何度も往復する姿を、同じショットで表現してみたり、長い脱線のように見せかけた左官屋と老人たちとのやり取りの終盤で、驚きの新展開を組み込んでみたり、シンプルな話ながらそうした仕掛けを細部に施して、うまく波を生み出している。
そして、この伏線の巧みさが、ラストシーンで見事に効いている。アハマッド少年の優しさに、素朴な感動を味わうのもいいが、冒頭のシーンと対比して考えると、このくだりは実に痛快なのだ。子供のことをちゃんと見ていない大人、という一貫した趣向の締め括りとしても素晴らしい。
そして最後に映される映像が、ささやかだが実に胸に沁みる。不勉強にも、午前十時の映画祭で採り上げられるまでまったく知らなかった作品なのだが、なるほど選ばれるのも納得の、侮りがたい傑作である。2011年8月現在、日本では映像ソフトが入手困難になっているのが実に勿体ない。
関連作品:
『それぞれのシネマ 〜カンヌ国際映画祭60周年記念製作映画〜』
『彼女が消えた浜辺』
『シベールの日曜日』
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