『チャップリンの独裁者』

『チャップリンの独裁者』

原題:“The Great Dictator” / 監督、製作、脚本、音楽&主演:チャールズ・チャップリン / 撮影監督:カール・ストラス、ロリー・トザロー / 美術監督:J・ラッセル・スペンサー / 編集:ウィラード・ニコ / 音響:グレン・ロミンガー、パーシー・タウンゼント / 音楽:メレディス・ウィルソン / 出演:ジャック・オーキー、ポーレット・ゴダード、レジナルド・ガーディナー、ヘンリー・ダニエル、ビリー・ギルバート、チェスター・コンクリン / 配給:東和 / 映像ソフト発売元:紀伊國屋書店

1940年アメリカ作品 / 上映時間:2時間6分 / 日本語字幕:清水俊二

1960年10月15日日本公開

2011年2月26日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]

第1回午前十時の映画祭(2010/02/06〜2011/01/21開催)上映作品

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2010/12/24)



[粗筋]

 第一次世界大戦末期。ユダヤ人の床屋(チャールズ・チャップリン)は戦場でシュルツ(レジナルド・ガーディナー)という将校を救ったが、一緒に墜落事故に巻き込まれ、戦争中の記憶をほとんど失ってしまう。

 この戦いで敗戦した床屋の祖国・トマニアは失意のなかに英雄を求めたのか、やがてひとりの独裁者を祭りあげるようになる。その男・ヒンケル(チャールズ・チャップリン二役)はアーリア人こそ最高の民族と主張し、ユダヤ人の迫害を押し進めた。ユダヤ人はゲットーに押しこまれ、いつ収容所に送られるか、恐懼する日々を余儀なくされる。

 しかし、終戦後、記憶が混乱したまま病院にいた床屋は至ってマイペースだった。病院を無理矢理退院して自分の店に舞い戻ると、あまりの荒廃ぶりに愕然としながらも、ユダヤ人を監視する突撃隊に傍目には敢然と、しかし当人にとってみればごく当たり前に抵抗を試みる。結局突撃隊に捕まり、街中で処刑されそうになったが、ヒンケル率いる政党で幹部に収まっていたシュルツによって救われた。

 同じ頃、隣国オスタリッチへの侵攻を企てたヒンケルは、ユダヤ人である金融業者から資金を借りるために、一時的にユダヤ人弾圧の手を緩めた。隣人ハンナ(ポーレット・ゴダード)とのあいだにロマンスの生まれていた床屋は、穏やかな日々を享受していたが、それもヒンケルの部下たちが、軍事費を捻出するまでの短い間であった……

[感想]

 本篇の白眉はクライマックス、コメディ俳優という肩書きをかなぐり捨て、チャップリンが大真面目に繰り出す演説である。映画史に残るこの一場面を楽しみにして劇場に足を運んだのだが、そういう期待からすると非常に意外なほど、正統派のコメディ映画であった。

 ――というより、何だかドリフあたりのコントを思い出させる作りでさえある。冒頭、砲台を巡るやりとり、将校を救ったあと、戦闘機で繰り広げられる暢気とさえ映るギャグの数々は、それこそドリフに限らず、テレビで幾度も見せられたパターンだ。後年のコメディアンたちにチャップリンが与えた影響の大きさを感じずにはいられない。

 そして、同じような動きで笑いを取りながらも、本篇はその組み込み方にまったく無理がない。さすがに不発弾のくだりは非現実的だが、それでもシチュエーションとはうまく溶けあっているし、細かに、畳みかけるように様々なアイディアが盛り込まれているため、ひとつが突出することが決してない。きちんとユーモアが、物語を綴っていくための手段として主役になり、明確に機能しているのだ。

 この作品では、チャップリンがタイトルロールたる、ヒットラーをモデルとした独裁者ヒンケルと、迫害される側のユダヤ人に属する床屋との二役をこなしている。もはや説明するまでもなく、クライマックスのある趣向に繋げていくために必要な設定なのだが、興味深いのは、この両者の演じ分け、描き方だ。別人というだけでなく価値観も正反対、終始受動的な床屋に対し、自らの地位を利用して横暴に貪欲に振る舞う独裁者の言動は見事に対照を為しているが、しかしコメディ部分の温度はほとんど変わらない。頻繁に切り替えても、さほど違和感を覚えないほどだ。

 終盤の趣向を有効にするため統一感を保ったのかも知れないし、1本の作品として、ギャグのトーンが変わることを望まなかった、とも取れるが、それ以上に独裁者の欲望を、記憶を失い状況に流されて頓珍漢な行動を繰り返す“道化”と同じレベルに貶めることを狙ったようにも感じられる。中盤、世界征服の野望に囚われ、風船で作った地球儀と戯れる独裁者の姿は、床屋に似た愛嬌が漂うぶん、余計にその滑稽さが際立つ。どこまで狙ったか定かではないが、表現手法が主題と見事に馴染んでいるのは名作の必須条件であり、この一点だけでも本篇は不朽の名作となる要素を備えていると言えよう。

 だがやはり、本篇の出色な点はその最後の演説だろう。このくだりの異様さは、本篇の風刺性にも拘わらず柔らかなウイットを終始守ってきたチャップリンが、明らかに意識してコメディにすることを放棄した演出をしている点からも実感出来る。たとえば演説が始まった段階、或いはその途中で居合わせた幹部たちの戸惑いや驚きの表情を織りこんでいれば、この演説は立派にコメディとして成立したはずだ。しかしここでチャップリンは、演説する自分を、ほぼ同じアングルで撮り続ける。挿入されるのは、床屋とは別の活路を求めながらも追い詰められたハンナの姿だけで、笑いを取ろうとする気配はない。

 この徹底してコメディから一線を画した態度が、しかし演説の衝撃、重量感をこの上なく増している。悲劇的な展開でありながら、直前まで笑いに執着していたチャップリンが突如として真剣な表情で極めて真っ当な主張をするからこそ、映画史で語り草になるほどのインパクトを体現したのだ。

 加えてここで、ハンナというヒロインを配置したことも映像的に効いてくる。チャップリンではなく、彼女の姿を中心に物語を締めくくったことが、妙な解説やエピローグを挿入するよりも遥かに清々しく、希望に彩られた余韻を添えている。

 やもすると演説の部分ばかりが採り上げられがちだが、本篇は基調をコメディに保つことで、そのメッセージ性を強めることに成功した、稀有の喜劇にして、極上のドラマなのである。もし演説の部分だけしか観たことがない、というのなら、是非ともいちど頭から通して鑑賞して頂きたい。この作品は、全篇がチャップリンからの切実な訴えなのだ。

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コメント

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