原題:“High Plains Drifter” / 監督:クリント・イーストウッド / 脚本:アーネスト・タイディマン / 製作:ロバート・デイリー / 製作総指揮:ジェニングス・ラング / 撮影監督:ブルース・サーティース / 美術:ヘンリー・バムステッド / 編集:フェリス・ウェブスター / スタント・コーディネーター:バディ・ヴァン・ホーン / 音楽:ディー・バートン / 出演:クリント・イーストウッド、ヴァーナ・ブルーム、マリアンナ・ヒル、ミッチェル・ライアン、ジェフリー・ルイス、ジャック・ギン、ステファン・ギーラシュ、テッド・ハートリー、ビリー・カーティス、スコット・ウォーカー、ウォルター・バーンズ、アンソニー・ジェームズ、ダン・ヴァディス、ジョン・ミッチャム、ポール・ブラインガー、リチャード・ブル、ジョン・クエイド、バディ・ヴァン・ホーン / マルパソ・カンパニー製作 / 配給:CIC / 映像ソフト発売元:GENEON UNIVERSAL ENTERTAINMENT
1972年アメリカ作品 / 上映時間:1時間41分 / 日本語字幕:?
1973年6月2日日本公開
2010年8月4日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]
DVD Videoにて初見(2010/12/13)
[粗筋]
蜃気楼の向こうから悠然と現れた流れ者(クリント・イーストウッド)は、海べりの町、ラーゴを訪れた。
流れ者が酒場に入るなり、鉱山会社の用心棒3人組が彼に因縁をつけた。だが流れ者は彼らを無視し、流れ者が入った床屋にまで追いすがってきたところを、一瞬のうちに撃ち倒してしまう。
町の要人たちはこの出来事に困り果てた。約1年前、町では3人の前任者にあたるステイシー(ジェフリー・ルイス)とカーリン兄弟を、騙して刑務所送りにしていたが、間もなく出所する、という情報が入っている。ステイシーたちから身を守るために、新たな用心棒たちの横暴に耐え忍んできたというのに、その肝心な日を目前にして、殺されてしまったわけだ。
そこで保安官のサム(ウォルター・バーンズ)は流れ者に、3人の殺害は不問にする代わり、用心棒となって欲しい、と提案する。しかし、「自分には関係のない話だ」と突っぱねられ、勢いあまって「求めるものは何でもやる」と言ってしまったことで、小さな町ラーゴに、未曾有の大騒動が巻き起こることになった――
[感想]
ここの映画感想で立て続けにクリント・イーストウッド主演作品に触れてきて、何度も記したことだが、イーストウッドは決して出演作品を安易に選んでいない。初期こそ、観客たちが自分に対して抱く“西部劇の俳優”というイメージを配慮して――実際、そういうものしか選べなかった現実も踏まえ――西部劇に相次いで出演していたが、自ら作品を吟味出来る立場を築くと、観客のイメージを改革していくように、少しずつ作品の傾向を変えてきた。
そういう観点からすると、大物であったジョン・スタージェス監督から自身の監督へ、という変更はあっても、この段階で『シノーラ』から続けて西部劇に出演したことに、若干奇異な印象を抱く。だがやはりそこはイーストウッド、決して同じような作品を選んだわけではなかった。
蜃気楼の中から主人公が現れるプロローグこそ思わせぶりだが、序盤は有り体な西部劇に映る。流れ者が酒場に現れ、一悶着があり、鮮やかな銃捌きを披露する。それがきっかけで、町はトラブルの処理を彼に乞う。安易な提案に乗じて流れ者はかなり無茶苦茶な要求を繰り返すが、どうもそこには、町が遭遇しているトラブルを解決するための策が仄めかされている……如何にも、漂着したヒーローが活躍する西部劇らしい筋書きだ。
だが、その随所に違和感が埋め込まれている。たとえば最初の銃撃の直後、食ってかかってきた女性を、流れ者は手籠めにしてしまうが、これはマッチョ型のキャラクターを演じることの多かったイーストウッドでも非常に奇異な描写だ。また、ところどころに来たる戦いへの布石のようなものを匂わせながらも、明らかに行きすぎであったり、どう考えても無意味な言動が鏤められている。
そして、時折挿入される回想が、これらを無言のうちに説明づけている、ように見える。かなり早い段階からちらつかされる過去のイメージが、普通の西部劇ではあり得ない流れ者の“来歴”を予想させるものの、しかし普通なら「まさか」と思うだろうし、そうだとしても何らかの説明が最後にあるものだ、と期待するはずだ。
本篇の評判がいまひとつ振るわないのは、この予兆を踏まえた上でも、終盤の展開があまりに無軌道に、不条理に映り、爽快感を伴わないせいだろう。特殊な復讐譚としても、ある種の教訓話と捉えても、平仄が合わないように感じられる。
しかし個人的には、この終盤の成り行きこそ、イーストウッドが敢えて自身の監督第2作に選んだ所以だろう、と思う。パターンを熟知した上での裏切りが生む意外性と、登場人物の意思を超えたところから繰り出される、寓話的な因果応報の構造が醸しだす余韻は、西部劇の土壌の上に組み立てられながらもまるで異質のものだ。本篇の後味はどちらかと言えば、『白い肌の異常な夜』のほうが近い――むしろ、あの異色作の構造を意識して反転させながらも、同じムードを再現していたかのようにさえ思える。
詰まるところ本篇も、わざと観客の持つ固定のイメージに対して挑戦を仕掛け、それがどのような効果を生むか見定めようとした、実験作だったのだろう。日本の各種サイトで散見される感想からすると、風変わりな西部劇として作ろうとして失敗した、程度に留まっており、あまり成功したとは言い難いが、しかし順繰りに鑑賞していくと、『シノーラ』のあとに本篇があることで、「何をするか解らない」という不気味な存在感をイーストウッドの上に醸しだしている。単品として面白い、と感じるのは難しいが、やはり彼の関わった作品を語る上で、『白い肌の異常な夜』や『恐怖のメロディ』などとともに、押さえておかないといけない1本であると思う。イーストウッドの作品、特に初期の監督作などを観たことのない人に薦めるのは、絶対にまずい代物なのも確かだけれど。
関連作品:
『荒野の用心棒』
『夕陽のガンマン』
『真昼の死闘』
『白い肌の異常な夜』
『恐怖のメロディ』
『ダーティハリー』
『シノーラ』
『許されざる者』
『グラン・トリノ』
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