原題:“The Trial of the Chicago 7” / 監督&脚本:アーロン・ソーキン / 製作:スチュアート・M・ベッサー、マット・ジャクソン、マーク・プラット、タイラー・トンプソン / 撮影監督:フェドン・パパマイケル / プロダクション・デザイナー:シェーン・ヴァレンティノ / 編集:アラン・パウムガーテン / 衣装:スーザン・ライアル / キャスティング:フランシーヌ・メイスラー / 音楽:ダニエル・ペンバートン / 出演:エディ・レッドメイン、アレックス・シャープ、サシャ・バロン・コーエン、ジェレミー・ストロング、ジョン・キャロル・リンチ、ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世、マーク・ライランス、ジョセフ・ゴードン=レヴィット、ベン・シェンクマン、J・C・マッケンジー、フランク・ランジェラ、ダニー・フラハティ、ノア・ロビンス、ジョン・ドーマン、マイケル・キートン、ケルヴィン・ハリソン・Jr.、ケイトリン・フィッツジェラルド、ブレイディ・ジェネス、ミーガン・ラファティ / マーク・プラット/ドリームワークス・ピクチャーズ製作 / 独占配信:Netflix / 日本劇場配給:博報堂
2020年アメリカ作品 / 上映時間:2時間9分 / 日本語字幕:田宮真実
2020年10月9日世界同時配信
NETFLIX作品ページ : https://www.netflix.com/watch/81043755
Netflixにて初見(2020/10/22)
[粗筋]
1968年8月、シカゴで開催された民主党大会に合わせ、反戦を唱える組織が複数、現地に入り集会を行った。それぞれに主義主張は異なり、合同で催したものではなかったが、何千人もの参加者が集まったことで統率を失い、やがて警察との衝突に発展していった。
5ヶ月後、新たに司法省長官に任命されたジョン・ミッチェル(ジョン・ドーマン)は、検察のトーマス・フォラン(J・C・マッケンジー)とリチャード・シュルツ(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)を呼び寄せる。長官は、民主党大会で発生した暴動に際して、現地に集まった組織の主導者たち計8名を暴動の共謀罪で起訴するように指示する。主任検事を任されたシュルツは、根拠となる法が、かつて南部で白人議員が黒人の発言を抑えるために起草したもので未だ凡例が存在しないこと、そして法廷にかけることで政府による言論統制の印象をもたらし、却って彼らの主張に利を与えてしまうことを告げたが、長官はそれでも彼らを共謀罪で刑務所送りにすることを望んだ。
こうして1969年3月に始まった裁判は、初日から波乱含みとなった。
裁判所の前では被告たちを擁護する者と反発する者が対峙する格好でデモを行い、騒然としている。だが、被告の1人であるトム・ヘイデン(エディ・レッドメイン)の頭痛の種は、被告側の足並みがまったく揃っていないことだった。ヘイデンとレニー・デイヴィス(アレックス・シャープ)は身なりを整えてきたが、文化的革命を主張するアビー・ホフマン(サシャ・バロン・コーエン)とジェリー・ルービン(ジェレミー・ストロング)らは入廷前に薬物を投与した興奮状態でホフマン裁判長(フランク・ランジェラ)を終始挑発し続ける。更に、黒人たちで組織されたブラックパンサー党の主導者ボビー・シール(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)は、自身の代理人が入院中であることを理由に審理の延期を申請していたが裁判官により却下されたため、裁判中に不規則発言を繰り返し、裁判長への反抗的な態度を露わにしていた。
弁護側がそれぞれの思惑を抱えて混乱しているあいだに、検察側は多くの証人を法廷に呼び出した。そのとき被告側のアビーは、衝撃的な事実を知る――
[感想]
ベトナム戦争や、それに対する反戦運動を題材にした映画などでしばしば“シカゴ・セブン”という名前が出てくる。本篇はその“シカゴ・セブン”と呼ばれた7名がかけられた裁判の模様をもとにした映画である。
私もこの時代の出来事に精通しているわけではなく、裁判の詳細は知らないまま鑑賞したのだが、序盤は正直、呆気に取られる内容だった。肝心のデモのくだりは、恐らく本物のアーカイヴを流用しつつダイジェストで提示し、すぐに司法省が検察官に訴訟の要請をする流れになる。そうしてさっそく場面が法廷に移る、までは至ってスピーディだが、ここから事態は急速に混沌とし始める。まず被告8人のうちボビー・シールにだけは代理人が出廷しない状態であり、いきなり裁判長とシールとの、法を盾に取りつつもあからさまな感情的なやり取りが繰り返される。しぶしぶシールが着席して、検察側の冒頭陳述に入るのだが、これもいちいち混ぜっ返しがあってなかなか先に進まない。こうした序盤の様相は、この時代の政情を反映したスラップスティック・コメディとして作品を展開しようとしているかに映る。
だが、ようやく裁判が動き出すと、次第に不穏な事実が明らかになっていく。実際の裁判、およびそこで提示された事実にどこまで添っているかは不明だが、この展開は極めてサスペンスに富むとともに、そして強引に反乱分子を封じ込めようとする権力側のやり口に対する嫌悪感を掻き立てずにおかない。
そもそもこの1968年に開催された民主党大会に合わせた各団体のデモが、ある種の危険を孕んでいたことは確かだろう。トム・ヘイデンのように、可能な限り穏健な抗議運動を遂行しようとしていた者もいれば、アビー・ホフマンたちのようにそこで同時に文化的革命が起こることを期待していた者もいる。ブラックパンサー党のボビー・シールに至っては、組織として武装を厭っていなかった、という背景もあった。
但し、事件当日のシールは拳銃を携行せず、滞在時間もわずか4時間に過ぎなかった、と主張しており、真っ当に審理を受けていれば、この裁判の焦点である暴動の共謀罪の対象とはならなかったはずなのだ。この事実からして客観的に不振を招くものだが、裁判所によるシールの扱いは目に余るものがある。
恐らく人種や出自の差違は現実のとおりだと思われるが、それが結果として、他人種、多文化社会であるアメリカという国家の中にある歪み、澱といったものが、この裁判を巡るドラマに集約されていった感がある。奴隷解放宣言はこれより遥か前のはずだが、依然として白人社会に蔓延る差別意識をはじめ、出身や収入による思考、理念の違いまでが、裁判を巡るやり取りの中で噴出していく。恐らく、この裁判に発展する暴動が起きなければ、彼らは“反戦”という同じ目標を掲げながらも、あまり交わる機会はなかっただろう。それほどに彼らの背景も信念も異なり、協調するのは困難だった。
そんな、意思の統一すら出来ずにいた被告側に対し、原告となる政府は、明らかに意図的な罠を張り巡らせた。劇中で真偽は解明されないが、陪審員の任命についても工作をした節さえある。どんな手を打っても勝ち目のない八方塞がりの状況に、当事者達は閉塞感に陥り、観ている側も強烈なフラストレーションを味わう。
だがしかし、それこそがある意味で本篇の肝でもある――この凄まじいまでの抑圧感が、クライマックスに至って、見事に昇華されてしまうのだ。実はこのときの裁判、最後まで被告にとって有利には進まなかったのだが、にも拘らず、本篇のクライマックスには異様なまでの昂揚感が満ちている。そこに、ずっと被告達の結託を妨げていた信条の違いや出自の差違もいっさい影を落としていない。国によって、そして法によって抑圧されたものを、権利の名のもとに解き放つ、真っ当にして強烈に轟く終盤の爽快感は観終わってしばらく忘れがたい。
この鮮やかなクライマックスでのカタルシスには、観客と作品のあいだにも存在していたはずの思想の違いさえも乗り越える逞しさがある。冒頭のコメディと見紛うような演出にせよ、巧みに抑圧を強いる中盤の展開にせよ、本篇は当時の世相をしっかりと織り込みながらも、そのドラマを万人の心を震わせるエンタテインメントとして成立させることを狙って撮った、と考えられる。『ソーシャル・ネットワーク』や『スティーブ・ジョブズ』など、現在進行形であったり、或いは未だ評価の定まっていない時期の出来事を巧みに整理し、作品として成立させた脚本家アーロン・ソーキンの技倆が遺憾なく発揮された傑作と言えよう。
関連作品:
『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』/『ソーシャル・ネットワーク』
『ジュピター』/『レ・ミゼラブル(2012)』/『ディクテーター 身元不明でニューヨーク』/『マネー・ショート 華麗なる大逆転』/『宇宙人ポール』/『グレイテスト・ショーマン』/『ダンケルク』/『ザ・ウォーク』/『レクイエム・フォー・ドリーム』/『アイリッシュマン』/『アンノウン(2011)』/『カンパニー・マン』/『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
『ディア・ハンター』/『プラトーン』/『地獄の黙示録 ファイナル・カット』/『ブラディ・サンデー』/『J・エドガー』/『ラビング 愛という名前のふたり』
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