新宿シネマカリテ、1階入口のドアに掲示された『少女ムシェット』ポスター。
原題:“Mouchette” / 原作:ジョルジュ・ベルナノス『新ムシェット物語』 / 監督&脚本:ロベール・ブレッソン / 製作代表:アナトール・ドーマン / 撮影監督:ギラン・クロケ / 美術:ピエール・ギュフロワ / 編集:レーモン・ラミー / 音楽:クラウディオ・モンテヴェルディ、ジャン・ヴィーネル / 出演:ナディーヌ・ノルティエ、ジャン=クロード・ギルベール、マリー・カルディナル、ポール・エベール、ジャン・ヴィムネ、マリー・ジュジーニ / 配給:コピアポア・フィルム / 映像ソフト発売元:IVC,Ltd.
1967年フランス作品 / 上映時間:1時間20分 / 日本語字幕:?
1974年9月21日日本公開
2020年10月30日4Kリマスター日本公開
2017年6月30日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon|Blu-ray Disc:amazon]
公式サイト : http://balthazar-mouchette.com/
新宿シネマカリテにて初見(2020/11/10)
[粗筋]
ムシェット(ナディーヌ・ノルディエ)の居場所はどこにもなかった。家では床に伏せる母の看病をしながら、まだ乳飲み子である弟の面倒に追われ、外で遊んでいても父には蛇拳に扱われる。学校では、音程の悪さを教師に責められ、一緒に帰る友達もいない。草むらに隠れて、同級生に泥を投げつけることしか、憂さ晴らしの方法はなかった。
ある日、森の中で雨をやり過ごしていたムシェットは、アルセーヌ(ジャン=クロード・ギルベール)と出会う。雨に濡れて困っていたムシェットを、アルセーヌは掘っ立て小屋に招いて火に当たらせた。
アルセーヌはこの森で密猟をしており、先刻、森番のマチュー(ジャン・ヴィムネ)と争い、殺してしまったかも知れない、と打ち明ける。自分のためにアリバイを証言して欲しい、とアルセーヌに請われたムシェットは、自分と同様に爪弾きにされる身の上である彼に共感して、頼みを受け入れる。しかし、酩酊したアルセーヌは、そんなムシェットに劣情を向けてしまう――
新宿シネマカリテ、ロビーに展示された『バルタザールどこへ行く』および『少女ムシェット』関連書籍やポスター。
[感想]
『バルタザールどこへ行く』の翌年に制作された本篇は、同作と事実上、対になっている。極端にまとめてしまえば、ロバのバルタザールに、少女の肉体と意思を表現する能力を与えたのがムシェット、と言える。ベースとなっているのはそれぞれ別の小説なのだが、はじめからロベール・ブレッソンという表現者によって映像にされることが運命づけられていたかのようだ。
それは過剰な解釈に過ぎないが、監督が意識してモチーフや描写を対比させていることは疑いない。大きく括れば、バルタザールもムシェットも、暮らす場所や仕事の中身を自分で選ぶことが出来ない立場だ。日々忍従を強いられ、泣き言を口にすることも許されないが、そこにほんの僅かばかりの慰めも存在している。バルタザールにとっては、マリーという幼少の幸せな時代を共に過ごした少女であり、ムシェットにおいては、序盤で少しだけ登場する遊技場のくだりなどだ。
だが、ムシェットの場合、なまじ自分の意志を表現するすべを持っていることが、よりその境遇を痛ましく実感させる。父に背中を押されたり、仕事を強要されるときの不服そうな表情、行き来するときことさらに大きな足音を立てて歩く仕草。よほど収入が乏しいのだろう、ムシェットは明らかにサイズの違う靴を履いており、それ故に他の子供たちよりも足音が響いてしまう。それをムシェットは、あえて自身の不遇を誇示するかのように、意識的に力強く踏み込んでいるかのように映る。
また少女の肉体を与えられたムシェットは、ロバのようにまるっきり無抵抗ではない。家族や大人たちに直接反抗は出来ない代わり、授業のあと、通学路脇の繁みに身を潜め、下校する子供たちに向かって泥を投げて憂さ晴らしをする。褒められた所業ではないが、そうせざるを得ないほど彼女の心が荒んでいることが窺え、より痛ましい。しかも、そんなムシェットの乱暴に、子供たちは怒りの眼差しを向けることはしても、食ってかかる者はひとりもいない。無視し、黙ってその場を去ってしまう。つまりムシェットは学校においても、相手をするに値しない存在だ、と認識されているのである。音楽の授業中、覚えの悪いムシェットの頭を掴み、鍵盤を叩いて音程を確認させる音楽教師が登場するが、むしろあれでも彼女を人間扱いしている、と言えるのである。
大人たちからは使い勝手の悪い労働力として蔑まれ、同年代の子供たちからは存在を半ば無視される。数少ない心を開ける相手も、ひとりは病に伏せる母親であり、ムシェットにとっては乳飲み子の弟と同様、面倒を見る対象だ。ここまで見事に“居場所がない”姿は観ていて忍びなくさえある。
これだけでも、少女にとっては過酷極まる状況だが、雨の日の出来事がムシェットを更に追い込んでいく。
森で密猟をしているアルセーヌという男は、数少ない、ムシェットと共感が出来る立場の人間だった。だからこそ、ずぶ濡れで家に帰ることが出来ないムシェットに気遣い、同時に自身の苦境を打ち明ける。劇中、ムシェットは誰かに意見するどころか、向き合って話をする相手は他に登場せず、まさにこれが唯一の機会だった。存在を軽んじられ、塵芥のように扱われていた彼女が、初めて人間として扱ってもらえたのである。心を開くのはごく自然な成り行きだった。
しかし、それすら最終的には、人間社会の悪徳によって蹂躙される。
『バルタザール~』のロバと違い、ムシェットは少女の肉体を持ち、意思の疎通が出来る。だが、そうした能力があることこそ、彼女が抑圧されている現実を惨たらしいほどに象徴する。雨の日にもうひとつの悲劇が重なり、打ちひしがれたムシェットを、世間はろくに気遣うことなく、更に無神経な言葉を叩きつける。ムシェットはここでも直接反発することはなく無言のまま立ち去り、その代わりに、悲劇的な結末を選ぶ。
そこでのムシェットの行動もまた印象的だ。こういう結末を選ぶなら、もっとシンプルな方法があるはずだが、ムシェットはあえて“回りくどい”やり方を選択する。それは最後まで、まともに耳を傾ける者のいなかった彼女が、せめてもと試みた自己表現なのだろう。そして、そう捉えると尚更に痛ましいのだ。意志を持ち、表現することも出来るのに、それを受け止めて貰えない存在であったことを、はっきりと自覚していた、と証明することになるのだから。
本篇は、肉体があればこそ、言葉があればこそ、余計にその孤独や絶望が浮き彫りになる。なまじ、『バルタザールどこへ行く』と共通したモチーフや表現を多用しているからこそ、その残酷さをいっそう際立たせる作りとなっているのだ。いずれか1本だけ観ても鮮烈なインパクトを残すに違いないが、併せて鑑賞することでメッセージが深まる。
それにしても、主役が何も語らぬロバであったが故に、悲惨でありながら寓話めいていた『バルタザールどこへ行く』と比べ、本篇はあまりに生々しい。優劣を決める類のものではないが、人間性を高めた本篇のほうが、私にはより恐ろしく映った。
関連作品:
『バルタザールどこへ行く』
『禁じられた遊び』/『孤島の王』/『白いリボン』/『汚れなき祈り』/『ゴーストランドの惨劇』/『異端の鳥』
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